「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、自分のMac好きの影響を受けた息子も『真っ直ぐに』Mac好き(というかApple好き)になり、iPodが発売開始されると直ぐに購入するようになることを、まだ知らなかった。
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上池袋の交差点近くにある薬局前、公衆電話ボックス横に、茶色のカジュアルなコートを着て立つ男の視線は、明治通り沿いの歩道に落ちていた。
「(ここの歩道も壊して、投石したのであろうか?)」
1982年の冬である。
男は、男の兄たちの世代、そう、学生紛争の頃の学生たちが、今、男の目の前にある明治通りでも、歩道を壊して投石をしていたであろうことに思いを馳せた。
「(学生たちは、そう、兄たちの世代の若者たちは、社会を変えたかったのであろう)」
男も『今』(1970年代、1980年代)の社会がいいとは思っていなかった。『今』の社会の象徴でもある親のいいなりになるのが嫌であった。社会に飲まれるのが嫌であった。
『世の常識』を強いられることに耐えることができなかった。
『世の常識』に従わないでいることは、孤独であった。その孤独感を男は、François MAURIAC(フランソワ・モーリアック)と共有した。
モーリアックの最高傑作とも云われる『蝮の絡み合い』(『LeNœud de Vipères』)の主人公である老人(ルイ)は、敬虔なカトリックで日曜には必ず教会に行く妻や妻の両親達、子ども達とは違い、教会には行かず、孤独である。
正しいのは、妻たちなのだ、多分。妻たちの方が、『義人』なのであろうが、今、上池袋の交差点近くにある薬局前、公衆電話ボックス横に、茶色のカジュアルなコートを着て立つ男が、共感するのは、ルイの方なのであった。
男は、『義人』なるものには反吐が出る思いがする。だから、ルイに、モーリアックに共感する。
そのモーリアックを男に教えたのは、遠藤周作であった。
「(そう云えば、遠藤周作が生まれたのは、この先の方であったはずだ)」
男の前にある明治通りが、池袋方面から来て、上池袋の交差点を越えて行くと、そこは西巣鴨である。
「(遠藤周作が生まれたのは、確か、西巣鴨だ。いや、今で云うと北大塚であったろうか…..)」
北大塚であるとすると、地下鉄の西巣鴨駅方面ではなく、上池袋の交差点を癌研通りに行ったあたりである。いずれにしても、遠藤周作は、『今』、男が立っている近くで生を受けたのだ。
「(ボクが今ここにいるのも、偶然ではなく、必然であったのかもしれない)」
尤も、遠藤周作は、3歳の頃には、親の転勤で(父親は、第三国立銀行[後に安田銀行]に勤務していたらしい)、大連に引っ越している。
「(ああ、大連の遠藤周作と同じような経験がボクにはあった….)」
大連にいた頃であったかと思うが、幼き遠藤周作は、母親に『毎日水やりをしたら、 お花が咲く』と云われ、雨の日も傘をさしながら、花に水をやっていた、という。
「(ああ、ボクも同じだった….)」
男の視線は、王子信用金庫の看板にいっていたが、男が見ていたのは、遠い故郷広島の翠町にある広島大学附属小学校であった。それも20年も前の広島大学附属小学校のある教室の中であった。
6歳であった男は、手を繋いだ母親に連れられ、教室の中の壁4面に配置された机を回るところであった。
それは、広島大学附属小学校の入学試験であった。
その入学試験は、問題が配布されて回答用紙に回答を記入するという方式はとっていなかった。
壁4面に配置された机に、教員がいて、机の上に置かれた器具等を使い、受験者(子ども)に質問をするのだ。
6歳であった男が最初に、受けた質問(問題)は、天秤であった。
男(6歳である)の前に天秤が置かれていた。
「さあ、どっちが重いかな?」
天秤の横に立った教員が、男(6歳である)にそう訊いた。
天秤は、向って右側に錘が置かれ、必然的に右側が下がっていた。
普段はシャイで知らない人にはまともに口もきけない男(6歳である)が、その時だけは何故か、元気に答えた。
「こっち!」
(続く)
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