「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、2018年5月6日に、日本大学アメリカンフットボールの選手が、試合で、ハンドオフの後に、相手チーム関西学院大学の無防備な選手に対して、後方から『真っ直ぐに』に危険タックルをしてしまったのは、彼が『曲がったことが嫌いな男』であったからではない、と思うようになることを、まだ知らなかった。
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1981年の夏、エヴァンジェリスト氏は、軽井沢のテニス・コートにいた。正確に云うと、テニス・コートの側に立っていた。
新入社員であったエヴァンジェリスト氏は、会社のテニス部に入り、夏合宿に参加していた。
「お前、野球部じゃなかったのか?」
ハンソデ先輩に訊かれた。冬でも半袖の服を着る、元気溌剌なテニス部の部長だ。
「ええ、野球部にも入っています」
「なんで、テニス部に入ったんだ?」
「ああ、テニスもしてみたくなりまして」
「じゃ、どうしてラケット持ってないんだ?」
「はっ!?」
「ハンソデさーん!」
痛いところを突かれた、と思った時、別のコートからハンソデ先輩を呼ぶ声が飛んで来た。
助かった。
ハンソデ先輩は、新入社員のエヴァンジェリスト氏から目をそらし、自分を呼ぶ声の方に振り向いた。
「ハンソデさんの番ですう!」
ハンソデ先輩の後頭部を見たエヴァンジェリスト氏は、
「….ふっ……」
と、吐息を漏らした。こっそりと。
…….が、ハンソデ先輩は、振り向いた。そして、
「お前、真面目にやれよ」
と言い残すと、別のコートの方に去って行った。
「どうしてラケット持ってないんだ?」
ハンソデ先輩の言葉が、エヴァンジェリスト氏の耳に残っていた。
「(だって……)」
そう、だって、自分はまだ新入社員なのだ。ラケットを買うお金がなかった。
これまで、中学でも、高校でも、大学でも、大学院でも、テニスをしたことはなかった。だから、元々、ラケットを持ってはいなかった。
「じゃ、なんで、テニス部に入ったんだ?」
そこにはもういないハンソデ先輩の声が聞こえたような気がする。
「(だって……)」
と、声にならない声で言い訳しながらも、エヴァンジェリスト氏の目は、目の前のコートや、コートの側で揺らめく幾つもの白い物を追っていた。
「(んっ……)」
唾を飲み込む。
(続く)
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