『少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・ドラマ『水戸黄門』のスポンサーは『ナショナル』(松下電器産業)だが、『ナショナル』といえば『水戸黄門』ではなく『ナショナルキッド』だろうに、とハブテた。
ハブテルと、
「あんたあ、ハブテンさんな」
と母親に叱られると思ったが、ハブテた。
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(ハブテン少年[その156]の続き)
「(野兎病(やとびょう)かあ…)」
大学の病理研究室の『武川和人』は、『野兎病』研究の為に総てを犠牲にしようとしていた。だから、教授に、
「大学の研究室というところは、みんなが一致団結して、一つの研究にとりくむところだ」
と、自分の研究(『野兎病』研究)を止めるように云われても、
「自分の研究を放棄するようなことは-今のぼくには考えられません」
と、『倉本聰』脚本のテレビ・ドラマ『わが青春のとき』の主人公である『武川和人』は、己を曲げることをしない。
「(大人は汚い)」
長いものに巻かれる『大人』、本来はおかしいと思われることでも既成事実化してしまうと、揉めることは避け、それでいいのではないか、と疑問を封じてしまう『大人』、そんな、
「♬オトナーに、なーりたくない♫」
という森山良子の歌(『山本直純』作曲・『倉本聰』作詞)のような、エヴァンジェリスト少年が生来持っていた怒りを、前年(1969年)の夏、『颱風とざくろ』で覚醒させた『倉本聰』は、その年(1970年)の2月に始まった『わが青春のとき』で、抑えようがないものにまでしていったのだ。
『わが青春のとき』には、『颱風とざくろ』と同じように、原作があった。しかし、『颱風とざくろ』のような『石坂洋次郎』の原作ではなく、スコットランドの小説家『A.J.クローニン』の『青春の生き方」を原作としていたものの、『颱風とざくろ』と同じように、その内容は、原作からは大きく離れ、『倉本聰』のオリジナルといった方が正しいのものであった。
「(ボクが大人になる頃には……)」
と、『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の卒業式が行われている体育館のステージ端に置かれた『日の丸』を見ながら、エヴァンジェリスト少年は、自らの唇を噛んだ。
「(いや、ボクたちが大人になる頃には!)」
しかし、その思いが、裏切られることになることを、その時、少年はまだ知らなかった。
『ボクたち』の多くが、『むーなしく、ゆたーかな、オトナーに』なってしまうことを。
(続く)
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