2020年9月30日水曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その131]

 


治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その130]の続き)



「小町通りを行くんだろ?」


夕暮れの鎌倉駅の前で、虚空を凝視めているビエール・トンミー氏に、エヴァンジェリスト氏が、声を掛けた。


「ああ」


ビエール・トンミー氏は、肯定の言葉を、明らかに不機嫌なトーンで返したが、


「鎌倉はなあ、実は、女房との初デートの場所なんだ」


エヴァンジェリスト氏は、構わず、語り始めた。


「本当は、奥多摩とか御岳山とか、アッチの方に行きたかったんだ」


と、云いながら、思い出しの笑みを頬に浮かべた。


「だって、山に行った方がいいだろ?」


老人2人は、小町通りの入り口の赤い鳥居を潜った。




「ふん!このスケベ野郎!」


沈黙していたビエール・トンミー氏が、友人の方を向くこともなく、嫌悪を吐き出すように云った。


「ん?分るか?」

「どうせ、山の方が手を出し易いとでも思ったんだろう」

「おお、さすがスケベ大先輩!山の方が、草むらだってあるし、山道には人気がないかもしれないものな」

「だけど、その魂胆は見抜かれたんだろう」

「そいうことなんだろうな。鎌倉に行きませんか、と云われた」

「でも、鎌倉でも手を出そうとしたんだろうが」



(続く)



2020年9月29日火曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その130]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その129]の続き)



「(『みさを』も黙っていた)」


鎌倉駅前で、ビエール・トンミー氏は、『みさを』と来た時のことを思い出していた。


「アタシ、夜、嫌い」


『みさを』は、ポツリとそう云ったのだった。


「え?」


『みさを』の気持ちを測りかね、ビエール・トンミー氏は、その一言を発することしかできなかった。


「ごめんね、ビーちゃん」


『みさを』が謝った。


「は?何も謝ることないよ」


夜が嫌いということは、夜が怖いということなのだと、ビエール・トンミー氏は、思った。だから、『みさを』を安心させようと、云った。




「ボクが一緒だから、大丈夫だよ」


しかし、その言葉がより『みさを』を苦しめたのだ。一瞬、泣き出しそうな顔をしたが、『みさを』のその顔は、夕闇の中、ビエール・トンミー氏には見えず、


「そうだよね、ビーちゃん。さ、行こう」


と、明るさを取り戻したような言葉だけが聞こえたことを思い出していたその時に、


「さあ、行こう」


思い出の中に、無神経な友人が、割り入って来た。



(続く)




2020年9月28日月曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その129]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その128]の続き)



「おいおい、どうしたんだ。もう帰るのか?」


鎌倉大仏を背に歩き出したビエール・トンミー氏を追いかけながら、エヴァンジェリスト氏が訊いた。


「もう『治療』はおしまいなのか?」


エヴァンジェリスト氏が、ビエール・トンミー氏に連れられ、江ノ島、鎌倉へと来たのは、産業医から告げられた『仕事依存症』の『治療』の為であったのだ。


「歩きなさい」


産業医にそう勧められた。心の病には、歩くことがいいのだそうだ。『仕事依存症』も一種の心の病であった。


「熊野古道にでもいらしたら如何ですか?」


とも云われたが、遠い熊野古道まで行く気はなく、しかし、友人を心配したビエール・トンミー氏に誘われ、江ノ島、鎌倉まで来たのだ。


「おい、ボクは何か変か?」


ビエール・トンミー氏に気に触れるようなことでも云ったでのはないか、と思い、訊いたが、


「はあ?ずっと、いつだって変だろうに」


振り向いたビエール・トンミー氏は、そう云うと、再び、背を向け、友人を置き去りにするように歩き出した。


「ボクの病気はまだ治っていないぞ。なのに、もう帰るのか?」

「まだ帰らん」


ビエール・トンミー氏は、振り向きもしない。


「じゃあ、次はどこに行くんだ?」

「鎌倉だ。鶴岡八幡宮に行く」


とだけ云うと、ビエール・トンミー氏は、『長谷』の駅まで無言で、そして、そこから江ノ電に乗っても無言で、無言のまま鎌倉駅に降り立った。


「……」


駅を出て、駅舎を見た時、ビエール・トンミー氏の目頭にクルマのライトが当たり光った。夕暮れから夜に入ろうとしていた。






(続く)




2020年9月27日日曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その128]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その127]の続き)



「ああ、『蓮弁』は本当は32枚作られるはずだったんだ。でも、実際には、4枚しかないのはなあ、財政的理由だと云われているんだ」


ビエール・トンミー氏が、鎌倉大仏の台座に蓮弁が4枚しかない理由を説明した。


「大仏様、可哀想…」


あの時、ビエール・トンミー氏の説明を聞いた『みさを』は、そう云って、眼を伏せた。


「(なんて、優しい娘なんだ!)」


ビエール・トンミー氏は、『みさを』への愛おしさが募った。


「(だが、ボクは、その時まだ知らなかった…)」


『みさを』は、どこか自らの境遇を大仏に重ねていたのだ。


「蓮かあ、懐かしいなあ」


今そこで眼を伏せていたと思っていた『みさを』が、60歳を過ぎた爺さんに変っていた。


「ウチの前も蓮田だったんだ。ウチの前だけではなく、小学生の頃は、隣以外は、近所は殆ど蓮田だったんだ」


エヴァンジェリスト氏は、昭和30年代の広島市の翠町を思い出していた。


「チッ…」


『みさを』を消されたビエール・トンミー氏は、舌打ちをした。


「蓮田だから、カエルも一杯いて、夏の夜は、ゲロゲロと煩かった」





「ああ、ボクが行っていた頃もまだ蓮田が沢山あったな」


ビエール・トンミー氏は、高校生の時、何故か、自宅のあった牛田から遠回りではあったが、エヴァンジェリスト氏の家に寄って、一緒に広島皆実高校まで通学していたのだ。


「蓮田というと聞こえはいいが、要するにレンコン畑だ。とても宗教的な崇高さは感じなかったけどなあ」

「君には元々、崇高なものは似合わない。蓮田の横を通って、『肉感的な』少女の後でも付けて、『んぐっ!』していたんだろうに」

「いや、『肉感的な』少女は、ウチの前を通って『ミドリチュー』に行ってはいなかった。それは、『パルファン』子さんの方だ」


『肉感的な』少女も『パルファン』子さんも、エヴァンジェリスト氏が、『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の頃、お気に入りだった一学年下の女の子たちであった。


「どっちでもいい!さあ、行くぞ」


『みさを』との思い出が、友人のお下劣な思い出に汚されたように思え、ビエール・トンミー氏は、鎌倉大仏を背に、歩き出していた。



(続く)




2020年9月26日土曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その127]

 


治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その126]の続き)



「それにしても、仏様のお尻にベロだなんてお下劣だなあ」


鎌倉大仏の台座の後ろの部分を見ながら、エヴァンジェリスト氏は、顔を顰めた。


「お下劣なのは、君の方だ!」


ビエール・トンミー氏は、ムキになって友人を批難した。無性に腹が立っていた。


「いいか、これはなあ、『ベロ』なんかじゃないぞ」


ビエール・トンミー氏が、鎌倉大仏の台座の後ろに4つ付いたものの解説を始めた。


「これは、『蓮弁』だ。ハスの花弁なんだ。仏像の台座にはよく蓮の花が付いているだろう。蓮は、仏のシンボル的な花なんだ。極楽には蓮の花が咲いていると云われているし、蓮はなあ、泥の中にあっても美しい花を咲かせる、というような宗教的な、仏教的な意味合いも持っているんだ」




と、解説しながら、déjà-vu(デジャヴュ)な感覚に襲われた。


「ビーちゃんって、ホント、スッゴイ博識だね」


そうだ。『みさを』と来た時にも、同じ説明をしたのだ。


「よ、『博識大先生』!」


エヴァンジェリスト氏が、拍手をしながら、言葉を続けた。


「でも、何故、4枚しかないんだ?」



(続く)




2020年9月25日金曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その126]

 


治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その125]の続き)



「(包む!?...んぐっ!)」


鎌倉大仏を前にしながら、ビエール・トンミー氏は、不謹慎にも股間に手を当てた。大仏の『包む』ような優しさを自分は受ける資格がない、という『みさを』の言葉の真の意味を知ることもなく、『包む』という言葉に、ある光景を連想したのだ。


「(包みたい!んぐっ!んぐっ!)」


『みさを』は既に、大仏の背の方に回っていたが、ビエール・トンミー氏は、股間の『異変』に足を踏み出すことができず、まだ、大仏の前にいた。


「(この後、どうするんだ!?夜になる……包みたい!包まれたい!んぐっ!)」


既に、午後4時を過ぎ、日暮れが近付いていた。


「ビーちゃん」


と呼ぶ声に、ショルダー・バッグで股間を隠しながら、大仏の背の方に回った。


「これ、なに?」


とこちらを向いたのは、『みさを』ではなく、エヴァンジェリスト氏であった。


「へ?」


ビエール・トンミー氏は、思わず頭を振った。


「これ、ベロ?」


と、指差された先は、鎌倉大仏の台座の後ろの部分であった。


「ああ、これは…」


と、指差された先から顔を上げ、横にいる友人を見たが、そこにいたのは、『みさを』であった。


「(んぐっ!.....『ベロ』!『みさを』が云ったのか、『ベロ』って!)」


慌てて股間を抑えた。


「べええー。ふふ、おいおい、心配するな、君を舐めたりはしないぞ」


と、舌を出しながら、そこにいたのは、エヴァンジェリスト氏であった。






「ば、ば、馬鹿かあ!」


エヴァンジェリスト氏から身を遠ざけながら、


「(どうなっているんだ?)」


再び、頭を振った。



(続く)




2020年9月24日木曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その125]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その124]の続き)



「大仏様って、ビーちゃんに似てるね」


鎌倉大仏を見上げた『みさを』は、そう云ったのだ。


「………」


『みさを』の言葉の意味を測りかね、ビエール・トンミー氏は、『みさを』の横顔をただ見ていた。


「おっきくって、優しくって、包んでくれる…聖らか、だね」


大仏を見上げる『みさを』は、手を合わせても組んでもいなかったが、拝んでいるように見えた。


「(いや…ボクは、聖らかではない…ボクは、ボクは今、君の…)」




ビエール・トンミー氏は、『みさを』の唇を凝視め、股間に『異変』が生じ始めていることを自覚した。しかし、その唇から、


「でも、アタシは、汚れてる」


という言葉が出、ビエール・トンミー氏は、また、思わず、


「え?」


と間抜けた声を出してしまったが、すぐに言葉を続けた。


「いや、君はキレイだよ」


それは、正直な気持ちだったが、『みさを』は、


「ダメだよ、アタシなんか。アタシなんか、包んじゃダメだよ」


と云うと、ビエール・トンミー氏に背を向け、鎌倉大仏の背の方に回って行った。



(続く)




2020年9月23日水曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その124]

 


治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その123]の続き)



「『みさを』だと思ったんだな」


鎌倉大仏のある高徳院の券売所を過ぎたところで、呆然と立ち尽くす友人のビエール・トンミー氏を見て、エヴァンジェリスト氏が、声をかけた。


「『みさを』も『おっきいねえ』と云ったんだな、ここで…」


しかし、エヴァンジェリスト氏は、自らの言葉を飲み込んだ。それ程までに、友人は、自失していたのだ。


「……」


それ以上、友人に声をかけることなく、エヴァンジェリスト氏は、鎌倉大仏へと歩を進めた。


「(あの時、君の背中は悲しそうだった…)」


『おっきいねえ』と云った後、『みさを』は、今のエヴァンジェリスト氏と同様、ビエール・トンミー氏に背を向け、大仏へと先を歩いて行ったのだ。


「優しいね、大仏様って」


背を向けたまま、『みさを』がそう云った時、ビエール・トンミー氏は、感じた。見えてはいなかったが、彼女が涙していることが分った。


「似てるね」


と、振り向いた『みさを』の目頭が、一瞬だが光った。




「え?」


しかし、ビエール・トンミー氏は、間抜けな、気の抜けたような声しか出せなかった。



(続く)




2020年9月22日火曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その123]

 


治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その122]の続き)



「そして、見たんだな?」


鎌倉大仏のある高徳院の仁王門を潜り、券売所で拝観券を購入し、進んだところで立ち止まったエヴァンジェリスト氏が、前方を指差して、友人のビエール・トンミー氏に訊いた。


「『みさを』と」


と問うエヴァンジェリスト氏の言葉に、ビエール・トンミー氏は、しばらく反応できなかった。眼の前には、鎌倉大仏が鎮座していた。


「図星だなあ」

「…な、何が図星だ。君は、さっきから『みさを』、『みさを』と云っているけど、誰だ、それは?そんな女、知らんぞ」


とは云ったものの、図星だった。そうだ、ビエール・トンミー氏は、『みさを』と、この日と同じように、江ノ島に行き、鎌倉文学館に行き、その後に鎌倉大仏まで来たのだ。




「あれ?『みさこ』だったけ?」

「しつこい!」


と、エヴァンジェリスト氏に向って唾を飛ばした時だった。


「おっきいねえ」


と、甘い声が聞こえ、思わず、その声の方に顔を向けた。


「(『みさを』!)」


と、思った。『みさを』が、こちらに笑顔を向けていた、と思った。が…


「ああ…」


背後から、野太い声がした。笑顔を向けてきていたのは、『みさを』とは似ても似つかぬ容貌の女だった。そして、その女の笑顔は、ビエール・トンミー氏に向けられたものではなく、彼の後ろにいる男、その女に似つかわしい程度の容貌の男に向けられたものであった。



(続く)




2020年9月21日月曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その122]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その121]の続き)



「あっち?」


ビエール・トンミー氏は、並んだ歩く友人のエヴァンジェリスト氏の方に顔を向け、口を開けたままにした。二人は、鎌倉大仏のある高徳院の仁王門を潜り、券売所近くまで来ていた。


「そうだ。あっちだ。君は、『みさを』と京都の大仏を見に行ったのか?」


というエヴァンジェリスト氏の言葉をビエール・トンミー氏は、理解できなかった。


「はああん?京都の大仏?」

「ああ、京の大仏だ」

「京都に大仏なんかあったかなあ?」

「あったさ」

「そんなの見たことないぞ」

「そりゃ、そうだろう。今は大仏自体はもうないからな」

「どういうことだ?」

「その昔、豊臣秀吉が建てたんだそうだが、焼失し、その後、何度か再建されたものの、やはり焼失して今はもうないんだ。でも、君は、『みさを』と正面橋は渡らなかったか?」






「正面橋?」

「ああ、正面通にある橋だ。正面橋、正面通は、京の大仏の正面につながるからそう名付けられたんだ」

「へええ」

「奈良の大仏より大きかった京の大仏は、それ自体はもうないが、大仏殿跡緑地公園に八角形の台座の位置を示す石があるんだぞ」

「そうなんだあ。君は、その跡地を見に行ったのか?」

「いや、行っていない。話に聞いただけだ」

「なーんだ」

「君もどうせ、京都に行ったのは、『みさを』といちゃつくことが目的だったんだろう?」

「いや、『みさを』とは京都には行っていない」

「そうかあ、でも、ここには来たんだな?」



(続く)




2020年9月20日日曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その121]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その120]の続き)



「君も、大仏の中に入ったのか?」


鎌倉大仏のある高徳院の入口から中に進みながら、エヴァンジェリスト氏は、友人のビエール・トンミー氏に話していた。


「まさか、中に入れるとは思っていなかっただろ?」


しかし、話題としているのは、今から見ようとしている鎌倉大仏ではなく、富山の高岡大仏であった。




「ボクは、高岡大仏の中に入ったことはない」

「ということは、『みさを』だけ、中に入ったのか?『みさを』は、驚いただろう、中に大仏の首があるんだものなあ」




「君も本当にしつこいなあ。『みさを』も中に入っていない」

「そうかあ、二人共、外から見ただけか」

「いいか、高岡に行ったことはないし、だから、高岡大仏も見たことはない」

「じゃあ、『みさを』と見に行ったのは、あっちの方か?」



(続く)




2020年9月19日土曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その120]



治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その119]の続き)



「で、あの背中だろ?」


鎌倉大仏のある高徳院の入口にいるのに、エヴァンジェリスト氏は、ビエール・トンミー氏に高岡大仏を語ろうとしていた。


「高岡大仏だな?」


というビエール・トンミー氏の方をエヴァンジェリスト氏は、見ることなく、


「君もやはり驚いたのか?あんな路地であんなものを見ることになるなんて思いもしないものな」


と、富山県高岡市の『大佛旅館』のある住宅街の路地に突如、出現した大きな背中を虚空に見ていた。


「で、その先に児童公園だろ?」

「はあ?児童公園?」

「そう、最初は児童公園だと思ったんだ。で、どうして児童公園に大仏があるのか、ってね。どう見ても大仏だが、本当に大仏か、ってね」

「児童公園ではなく、境内だったんだな」

「そうかあ、君も行ったことがあるから知っているんだな」

「いや、話の流れから分るだろ」

「で、境内に入り、正面から見ると、やはり立派な大仏だったが、それよりも驚いたのが、大仏前にある説明書きだ」

「そこに日本三大仏、とあったんだな」




「君も『みさこ』とあれを読んだか?あ、いや、『みさを』か?」

「しつこいなあ」



(続く)