2021年11月10日水曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その43]

 


「ハンバーグは、元は、ドイツの『ハンブルク』という街で作られた料理らしいんだ」


と、広島の老舗デパート『福屋』の大食堂で、『少年』の父親が、ハンバーグも日本製の洋食なのか、という娘(『少年』の妹である)の質問に答えていた。


「元の料理は、『タルタルステーキ』というものらしい」


さすがの『少年』の父親も、やや自信なさげに説明する。


「え?『タルタルステーキ』って?」


と、『少年』の妹は、間髪入れずのタイミングで質問した。


「『タルタル人』が作った料理で、そうだなあ、見たことはないんだが、ハンバーグの焼く前の状態のようなものらしい」

「『タルタル人』って?」


と、質問を重ねる『少年』の妹は、あの兄にしてこの妹あり、といえる聡明さであった。


「うーん、はっきりしないようなんだが、モンゴルやトルコ辺りの騎馬民族だったらしい。その『タルタル人』が食べていた焼く前のハンバーグみたいな料理が、『タルタル人』がヨーロッパに攻め入った時に、ヨーロッパに伝わって、ドイツのハンブルクでは、労働者に人気になったようなんだ」

「でも、それって、焼く前のハンバーグみたいな料理で、ハンバーグじゃないんでしょ?」

「そうだ。それは、あくまでタルタルステーキなんだ。それがハンバーグになったのは、ハンブルクなんだそうだ。ハンブルクは港町で、その港からアメリカに移住する人たち用に、タルタルステーキを移民船のコックが出そうと考えたものの、生肉を使うタルタルステーキを焼いた方が長持ちすると思い、焼いたのが始まり、とも云われるようだし、ハンブルクの領主が、焼いた方が美味しんじゃないかと、タルタルステーキを焼かせたのが始まりとも云われているようなんだ。まあ、どうにせよ、『ハンブルク』からハンバーグが始まったのさ」

「で、どうして、焼いたタルタルステーキの名前が、ハンバーグになったの?」

「いい質問だ」


と、『少年』の父親は、今なら(2021年の今なら)、『池上彰』風とも云える言葉を発したが、『池上彰』氏は、当時まだ高校生で、『いい質問ですねえ』とは云っていなかったと思われる(尤も、在籍していた大泉高校で、そう云っていたかもしれない)。しかし、『池上彰』氏は、丁度その頃(1967年の3月である)、広島との繋がりを持っていたのである。


NET(今のテレビ朝日だ)が放映していたテレビ・ドラマ『ある勇気の記録』を見て、記者を志すようになったと云われているのだ。『ある勇気の記録』は、広島の地方紙『中国新聞」の記者が、広島での暴力団抗争の中、ペンで暴力団に立ち向った実話を元にしたドラマだったのだ。そして、後にNHKに入局後、広島放送局呉通信部(今の呉支局)勤務となり、その関係から広島東洋カープのファンになったそうなので、実は、広島との縁が深いらしい。


……その『池上彰』風な、『少年』の父親の説明ぶりを耳にした周囲の別のテーブルの家族たちが、囁きあった。


「あの『パパ』さん、やっぱり大学教授みたいな感じよお」

「ほおよねえ、『ええ質問じゃあ』云うとってじゃった。学生に云うとるみたいじゃった」

「何云いよるん。それ、広島弁じゃないねえ。『いい質問ですねえ』云うちゃったんよ

「ウチ、大学入り直して、『パパ』さん先生の授業受けたいわあ」

「バカ云いいさんな。アンタ、大学行っとらんじゃないねえ」

「『パパ』さん、テレビで、政治やら経済のことやらを教えてくれんかねえ」

「『時事放談』みたいなん?『オバマ・リトク』と『ホソカワ・リューゲン』の?」


『時事放談』は、当時(1967年である)、毎週、日曜日の朝に放送されていた『オバマ・リトク』(小汀利得=オバマ・ヨシエ)と『ホソカワ・リューゲン』(細川隆元=ホソカワ・タカチカ)の2人による政治討論番組である。




「違うよねえ。あれは、『ジジイ放談』で、爺さん2人が、煩う話しとる番組じゃないね。そうじゃのうて、『パパ』さんに、政治や経済のことを、ウチらでも分るように易しゅう、教えて欲しいんよ」


と、それから40年後の『池上彰』氏の民放テレビでの活躍ぶりを予言するような会話となっていた。


(続く)




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