「お父さん、原爆ドームは、昔、『広島県産業奨励館』だったと云ったじゃない」
と、広島の老舗デパート『福屋』の大食堂で『少年』は、父親に詰問調で向っていた。『少年』の父親が、ドイツ人のカール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを作ったのは、『広島県物産陳列館』の『ドイツ作品展示会』でだった、と云い、更に、その『広島県物産陳列館』が今の『原爆ドーム』のことだ、と説明したからである。
「ああ、原爆ドームは、昔、『広島県産業奨励館』だったんだよ」
『少年』の父親は、内心の驚きを見せぬよう、言葉をゆっくりと口から出していった。
「(この子は、覚えていたのか!?)」
『福屋』のビルが『被曝』はしたものの崩壊を免れたのは、コンクリート製のビルだったからであり、『広島県産業奨励館』もコンクリート製のビルだったから、爆心地のすぐ近くだったが、完全にはなくならず、残ってはいることを話した際に、確かに、それが今の『原爆ドーム』だと説明したことを、『少年』の父親は思い出した。
「原爆ドームは、昔、『広島県産業奨励館』だったけれど、『広島県物産陳列館』でもあったんだよ」
「え?」
「もっと正確に云うと、原爆ドームは、昔、『広島県立商品陳列所』でもあったんだ」
「ええ?ええ?」
「要するに、原爆ドームは、元々は、『広島県物産陳列館』だったんだが、その後、『広島県立商品陳列所』と名前を変え、更に、『広島県産業奨励館』と名前を変えたんだそうだ。そして、戦争が激しくなったことで、被曝する年の前年、つまり1944年には、『産業奨励館』としての業務は停止して、内務省中国四国土木出張所とか広島県地方木材という会社なんかの事務所として使われていたそうだ」
「ああ、そうなの。それで、カール・ユーハイムというドイツの人は、原爆ドームが『広島県物産陳列館』だった頃に、そこで日本で初めてバウムクーヘンを製造して販売した、ということなんだね?」
「その通りだ」
「でも、どうして、カール・ユーハイムさんは、『広島県物産陳列館』でバウムクーヘンを作ったの?」
『少年』は、まだ明かされていない点を突いてきた。
『少年』とその父親の会話を聞き齧った周囲の他のテーブルの男たちが、囁き合った。
「今、なんか、カールなんとかいうドイツ人、云うとったのお?」
「よう聞こえんかったが、そう云うとったかもしれん。ドイツ人云うんは聞こえたで」
「プロレスラーのこと、話しとんかのお?」
「なんでや?」
「カール・アッチとかコッチとかいうドイツ人のプロレスラーがおるんよ」
「プロレスは、八百長じゃろう?」
「そりゃ、知らんが、そのカール・アッチとかコッチとかいうドイツ人のプロレスラーは、なんか、えろう礼儀正しいんよ。試合が始まる前に、キョーツケーして、首をちょこんと下げて挨拶するんよ」
「そうような外人プロレスラー知らんでえ」
「外人なのに、凶器使うとか、噛み付くとか、悪いことせんのんよ」
「ブラッシーみたいに、ヤスリで刃を研がのんかあ?」
「試合が終ったら、吉村道明なんかと握手するんじゃ」
「いなげな外人じゃのお」
男たちは、自分たちが話題に挙げているプロレスラーが、『カール・ゴッチ』であり、当時(1967年)はまだ、今のようなカリスマになる前であったアントニオ猪木の師匠となり、多大の影響を与えることになるとは知らなかったのだ。
ましてや、『カール・ゴッチ』が得意としていたジャーマン・スープレックス・ホールドが、和名では『原爆固め』という、広島人にとっては少々物騒な名前であることも知らなかったのだ。
更には、『カール・ゴッチ』は、ドイツのハンブルク出身と云われるも、実際には、国籍はドイツだが、実はベルギーのアントワープ出身であると云われたり、実は実は、1948年のロンドン・オリンピックのレスリングにベルギー代表として出場したとも云われるようになることなぞ、知るはずもなかった。
(続く)
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