2021年10月28日木曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その30]

 


そうだ、『ピカドン』だ。原爆にあってるんだ、『福屋』のビルは」


『少年』の父親は、これから行こうとする広島は『八丁堀』のデパート『福屋』も『被曝』したことを説明した。


「広島って、原爆で、建物もなーんにも無くなっちゃったんじゃないの?」


『少年』は、その時、広島に入って初めて、原爆のことを思い出した。広島は、原爆で『なーんにも無くなった』と聞いたが、今、自分がいる広島は、普通の街であった。立派な駅ビルもあったし、色々なビルや商店、住宅があり、バスも沢山走り、広島駅前は、人も宇部よりは遥かに多かったのだ。


「ああ、見渡すところ殆どの建物は、猛烈な爆風や火災で無くなったんだそうだが、コンクリート製のビルなんかは、残ったものもあったんだよ。『福屋』のビルがそうなんだ。原爆ドームだって、ああ、元は、『広島県産業奨励館』っていうんだけど、爆心地のすぐ近くだったが、完全にはなくならず、残ってはいるんだからね。でも、原爆の後は、本当に一面、焼け野原だったんだ。いや、ただの焼け野原じゃなくって、沢山、真っ黒になった….ああ、今は、そのことはいいだろう。『福屋』のビルは、なんとか残ったものの、広島は、そうだ、なーんにも無くなっちゃったんだ

「そうなんだあ。広島って、原爆で滅茶苦茶になったのに、今は凄い街になってるんだね。原爆が落とされたのも、もう昔のことだもんね」


と、『少年』が云ったのは、1967年(昭和でいうと42年)のことである。原爆が広島に投下されたのは、そこから22年前であった。22年は、『少年』、いや、少年には、遠い『昔』であったのだ。そのことに、『少年』は、それから50年以上経ち、60歳をかなり過ぎてから気付くことになった。


しかし、その時の『少年』にとって、1945年(昭和でいうと20年)が『遠い昔』なのは、実感であったし、到着したばかりの1967年の広島で、『遠い昔』の状態を想起させるものはまだ出会っていなかったのだ。


むしろ、


「パパあ、もう行こうよお。お腹すいちゃったよお」


という妹の声に、『少年』の腹も、思わず鳴り、原爆のことは頭から消えたのであった。





(続く)





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