「ビエール、行くぞ」
背後から父親の声がし、『ひろしま駅ビル』を見上げていた『少年』は、振り向き、先を歩き始めていた両親と妹を追ったが、その時、
「チンチン!」
と音を立てた乗り物を見て、
「あ、チンチン電車!」
と云ったものの、『少年』は、顔を赤らめた。通りすがった高校生くらいの少女が、キッ、と『少年』の方を見たからだ。
「(しまった!『チンチン』なんて云ってしまった…でもお...)」
そう、『チンチン』なんて恥ずかしい言葉であるという認識を持つ歳になっていたが、『少年』の眼の前には、実際に、『チンチン電車』がいたのだ。広島電鉄の路面電車である。
「(あれは、『チンチン電車』だあ。『チンチン電車』のことを『チンチン電車』と云わないなら、なんて云うんだろう?)」
『少年』は知らなかった。通りすがった高校生くらいの少女が、睨むように『少年』の方を見たのは、『少年』の『チンチン』という言葉を聞いたからではなかったのだ。
「(『ジェームズ・ボンド』?...んんん、まだ子ども….でもお…)」
少女は、『少年』が宇部市琴芝で、今、少女が思ったのと同じように思われていたことを勿論、知っていたわけではなかった。
「(鹿児島だって、『チンチン電車』って云ってたし)」
小学校に上がる前の半年、鹿児島に住んでいたことがあった。住んでいた頃の記憶は薄かったが、鹿児島には、今もそうであるが、路面電車が走っていた。鹿児島は、両親の田舎でもあったので、幾度か帰省したこともあったのだ。
「(福岡にもあったと思うけど、やっぱり『チンチン電車』だったと思う)」
確かに、当時(1967年)、福岡市にはまだ、路面電車が運行されていた。『少年』は、福岡生れであった。福岡の春日原(かすがばる)である。
「(父さんも、母さんも、『チンチン電車』って云うし)」
春日原は、今は、春日市であり、『少年』が生れた頃は、筑紫郡で、いずれにしても福岡市ではなかったが、西鉄電車で福岡市を出た最初の駅が春日原駅であり、ほぼ福岡市といってもいい位置にある。
「(まあ、福岡のことはよく覚えてないけど)」
『少年』は、父親の仕事の関係で、5歳半で春日原から鹿児島に引っ越したのだ。
「ビエール、こっちだぞ」
『チンチン電車』に気を取られていた『少年』、若き日のビエール・トンミー氏を父親が呼んだ。
(続く)
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