「2人とも、その辺にして。アイスクリームが溶けてきてるわ。それを食べて、帰りましょ」
と、『少年』の母親が、夫と息子に声を掛けた。広島の老舗デパート『福屋』の大食堂で、『少年』と『少年』の父親は、日本人とは何なのか、というデパ^との食堂に相応しいとは言い難いテーマの話を続けていたのだ。
「アイスクリーム食べないのなら、わたしが食べちゃうわ」
と、『少年』の妹が、舌を口から横に出したペコちゃんのように、兄のアイスクリームに手を伸ばそうとしたので、
「いや、食べる」
と、『少年』が、アイスクリームを自分の方に引き寄せ、『少年』の父親も、溶け掛けのアイスクリームをようやく口に入れ、
「美味しいなあ。でも、ここの地下の食品売り場に美味しい饅頭があるから、それも買って帰ろう」
と、提案した。
「もみじ饅頭だね」
アイスクリームを食べ終えた『少年』は、眉間にしわ寄せたような表情から一変させて笑顔を見せた。
「でも、どうして、広島で『もみじ饅頭』なんだろう?」
『少年』は、新たな疑問を呈した。
「『もみじ』は、広島の『県の木』なんだよ。去年、そう決められたんだ」
『少年』の父親が云う『去年』は、1966年のことであった。
「じゃあ、どうして『県の木』になったのかと云うと、広島には、帝釈峡や三段峡という『もみじ』の名所の峡谷があるんだ。それに、何より、宮島には『紅葉谷』という『もみじ』の名所があって、そこから宮島で『もみじ饅頭』が作られるようになったんだよ」
「え、そうなの。『もみじ饅頭』って、宮島から始まったの?」
「宮島に高津という和菓子職人さんがいて、その人が、紅葉谷にある『岩惣』(いわそう)という旅館の女将さんから『紅葉谷』らしい、お土産になるようなお菓子を作って欲しいと頼まれて作ったのが、『もみじ饅頭』の始まりなんだそうだ。最初の『もみじ饅頭』は、名前も『紅葉型焼饅頭』で、形も、『もみじ』の葉っぱの形を付けたもので、饅頭そのものが『もみじ』の形をしたものではなかったそうだけど。『岩惣』に泊った伊藤博文が『もみじ饅頭』のヒントになるようなことを云ったとも伝えられているが、はっきりはしていない。伊藤博文が云ったヒントとなる言葉がどんなものであったのかも、幾つかの説があるようだ」
『少年』の父親は、伊藤博文が、茶屋で給仕した可愛い女性の手を見て、『こんな可愛い紅葉のような手を食べてしまいたい』とか、それに類するような言葉を吐いたとも云われることは、口にしなかった。息子は、まだ小学校を卒業したばかりなのだ。しかし、
「でも、『もみじ』って何なの?」
と、『少年』が、年齢に見合わぬ聡明さを感じさせる質問を父親に投げてきた時、『少年』と『少年』の父親との会話を聞き齧り、『少年』とその家族のテーブルの周囲の別のテーブルの家族たちが、囁き合った。
「『パパ』さんが、ジェームズ・ボンドに『もみじ饅頭』教えとりんさるで」
「やっぱり、東京からでも来たんじゃろう」
「『もみじ饅頭』は、『にしき堂』のが美味しいこと教えたぎょうか?」
「何云うんや。『もみじ饅頭』は、『やまだ屋』じゃ」
「アンタら、分っとらんのお。『藤い屋』のが一番じゃけえ」
「中に、餡子じゃのうて、チョコレートなんか入れたん作ってもええのに」
「ウエーっ!何、気持ち悪いこと云うんならあ!」
『B&B』が、『もみじまんじゅう!』というギャグで一世風靡し、それが切っ掛けとなり、ブームとなった『もみじ饅頭』にチョコレート入り等のいろいろなバリエーションの物が出てくるのは、それから(1967年から)まだ10年余り後のことである。
(続く)
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