「徳川幕府は、『鎖国』政策なんかとっていなかったんだよ」
と、『少年』の父親は、息子の抗議に冷静に対応する。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明し、更に、その『シーボルト』のことをオランダ人と思う息子の理解を否定し、『シーボルト』がドイツ人であったと明かしたところ、『少年』は、当時(江戸時代)、日本は『鎖国』していて、オランダ人しか日本に来ることはできなかったはずだ、と抗議したが、父親は、今度は、その『鎖国』そのものを否定するのであった。
「徳川幕府は、『鎖国』という言葉を使ってはいなかったんだ」
という『少年』の父親の説明は、『少年』にとって盲点であった。
「……そういえば、徳川幕府が『鎖国』を宣言した、とは習ってない」
「江戸時代の『鎖国』が、言葉として日本で認識して、使われるようになったのは、明治になってからのようなんだ。江戸時代にオランダ商館の医者として日本に来たことのあるドイツ人のお医者さんの『ケンペル』が書いた日本に関する記述を日本の蘭学者の『志筑忠雄』という人が翻訳した時に、『鎖国』という言葉を使ったらしいが、その時代には『鎖国』という言葉は普及しなかったんだ」
「へええ、そうなんだね。でも、『鎖国』という言葉がなく、『鎖国』を使っていなかったとしても、徳川幕府が『鎖国』したことは確かじゃないの?」
「そうではないんだよ。徳川幕府は、『鎖国』政策をとっていなかったんだ。採っていた政策は、海外との交易を限られた場所だけにしたことなんだ。長崎は、そう、オランダとの窓口だ。でも、長崎は、中国との窓口にもなっていたんだ。長崎に中華街があるのは、その歴史的な背景があるからだ。長崎以外にも、対馬では対朝鮮、北海道の松前では対蝦夷との交易があったんだ。その頃の蝦夷というには、『アイヌ』の人たちのことだ。実際には、『アイヌ』の人たちを仲介として、『山丹人』というアジアの大陸北部から樺太の住む人たちとの交易だったようだがな。薩摩も対外交易の窓口になっていて、相手は『琉球王国』だったんだ」
「今の沖縄だね」
「そうだ。これで分ったと思うが、日本は江戸時代、『鎖国』、つまり、完全に外国との交流を閉ざしていた訳ではなかったんだよ。窓口を限定はしたけど、対外交易をしていなかったんじゃなく、海外との貿易を民間の自由とはせず、幕府が管理していただけなんだ」
「うん!日本が、江戸時代に『鎖国』をしていたというのは、正しくはなかったんだね!....でもお…」
と、『少年』が未だ疑問を残している様子を見せた時、
「なんで、『トニー』なんや?」
えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道の反対側(『天満屋』側)で信号待ちする『ノートルダム清心』の制服を着た高校生らしき少女の父親が、娘に訊いた。少女が、『トニー』と口にしたことに関して、隣に立つ父親が、それを『トニー谷』が近くにいるのかと勘違いしたことに、少女は抗議し、自分が云ったのは、『トニー谷』ではなく、『和製ジェームズ・ディーン』こと『赤木圭一郎』である、と説明した。そして、『赤木圭一郎』がゴーカートで事故死したことが、クルマで事故死した『ジェームズ・ディーン』に似ていることから『和製ジェームズ・ディーン』と呼ばれる由縁だと説明したのであったが、父親はまだ納得していなかった。
「なんで、『ジェームズ・ディーン』が『トニー』になるんや?『ジェームズ』じゃったら、『ジミー』とか『ジム』じゃないんかのお?」
(続く)
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