「『檀家』というのは、『家』という文字が入っている通り、『家』単位のものなんだが、浄土真宗では、『家』よりも『個人』の方を尊重しているからとも云われるようなんだけどな」
と、『少年』の父親は、浄土真宗では、何故、『檀家』と云わず『門徒』というのかと云う説明に入り始めた。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明し、更に、その『シーボルト』が、オランダ人として日本に入国したものの、実はドイツ人の医者であったこと、更には、日本の女性との間に娘をもうけたことを説明したところ、『少年』が、『シーボルト』は日本で日本の女性と結婚したんだね、と確認してきた為、当時(江戸時代)の結婚というものの説明まで始めることとなり、結婚の際に必要となった書類の説明に関連して、宗教、宗派のことまで語り出し、『檀家』と『門徒』との違いを説明しようとしていたのだ。
「じゃあ、『檀家』じゃなくって、『檀那(旦那)』という言葉を使えばいいんじゃないの?」
「『檀那(旦那)』でも駄目だろうと思う。というのは、『家』という言葉に問題があるというよりも、『檀那(旦那)』という言葉そのものに問題があるんだろうと思う」
「『門徒』の方が、個人を意味している感じがするからなの?」
「まあ、その要素もなくはないかもしれないが、先ず、『門徒』って、大雑把に云うと、元々は、同じ宗派の人のことをいうもので、浄土真宗だけの言葉ではないんだ」
「でも、他の宗派では、『檀家』の意味で『門徒』とは云わないんでしょう?」
「『門徒』は、本来は、それぞれの宗派の僧侶のことを指していたようなんだが、浄土真宗では、普通の信者にも使うようになったんだ。そこが大事なところなんだ」
「でも、だからって『檀家』ではダメとはならないと思う」
「いやな、『檀家』って、『ダーナ』だろ。『ダーナ』は与える人なんだ。つまり、『檀家』は、お寺にお金を与えて支援するというニュアンスがあるんだ」
「それがいけないの?」
「浄土真宗では、お坊さんと普通の信者を、支援する方と支援される方とに分けるのではなく、同じ信仰を持つ一つの共同体と捉えるんだと思う。だから、『檀家』ではなく、同じ信仰を持つ『門徒』という言葉を使うんだろうなあ」
「ああ、そういうことなんだね。江戸時代の結婚で必要だった『離旦證文』って、要するに、『檀家』と『門徒』との言葉の違いはあっても、結婚することで属するお寺を別の寺に移すという書類なんだね」
「そうだ。その通りだ。『離旦證文』は、そういうことで、お寺が出す書類だ」
「でも…」
と、『少年』が、浄土真宗では『檀家』と云わず『門徒』ということに納得し、『離旦證文』の意味を理解はしたものの、まだ納得できていないことを口にしようとした時、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道の反対側(『天満屋』側)では、信号待ちする『ノートルダム清心』の制服を着た高校生らしき少女の父親が、娘から、父親と母親とはどうやって自分を作ったのかと訊かれ、
「….そりゃ、あれよお……」
と、口淀んだ。
「あれよお、いうんは何なん?」
少女は曖昧を許さない。
「あれよお、お父ちゃんとお母ちゃんが愛し合うとるけえ、できたんよ」
と、父親が顔を赤らめると、
「アンタあ、何云うんね!そりゃ、まあ....アンタあ、エエ男じゃったよねえ」
母親も、そう云って、顔を赤らめた。
「お前こそ、可愛かったでえ」
(続く)
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