「『シーボルト』には娘がいたんだ、日本に」
と、『少年』の父親は、『少年』が想定していなかった状況を語り始めた。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明し、更に、その『シーボルト』が、ドイツ人の医者ながらも、オランダ人として、日本に入国しようとしたところ、日本側の通訳からオランダ語の発音が変だと怪しまれたものの、自分は『山オランダ人』(山岳地方に住むオランダ人)だ、と誤魔化したようだ、と説明し、更には、『シーボルト』の娘も自分の父親のことをオランダ人だと思っていたようだ、と云い出していた。
「日本に?」
『少年』には、『シーボルト』に、日本に娘がいた状況が飲み込めない。
「『シーボルト』は日本人女性との間に女の子をもうけたんだ」
「へええ、『シーボルト』は、日本で日本の女性と結婚したんだね」
「うーむ…結婚かあ…」
「結婚せずに子どもができたの?」
と、云いながら、『少年』は、自分にしか分らない程度に頬を薄紅に染めた。子どもがどのようにしてできるか、朧げながら知ってきていたのだ。
「ビエール、結婚ってなんだ?」
「え?」
「どうすれば結婚したことになるんだ?」
「それは、役所に結婚の届を出すんじゃないの?....あ!江戸時代には、そんな届はなかったんだ!」
「いや、江戸時代にも届はなくはなかったんだ。今は、役所に婚姻届を出すんだが、江戸時代には、『所請状之事』(ところうけじょうのこと)と読むのかなあ、それと『離旦證文』(りたんしょうもん、か、りだんしょうもん)と読むんだと思うが、その2つの書類が必要だったんだ」
と、『少年』の父親は、取り出して開いたままであった手帳に、自身のモンブランの万年筆で、『所請状之事』、『離旦證文』と書いた。
「『所請状之事』というのは、庄屋が作る書類なんだ。庄屋は、知っているだろ?」
「うん、今でいう町長さんとか村長さんのことでしょ」
「その通りだ。関東では、『名主』と呼ぶところが多かったようだし、地方によっては、『肝煎り』と呼ぶところもあったようだがな」
と、『少年』の父親は、またまた、取り出して開いたままであった手帳に、自身のモンブランの万年筆で、『庄屋』、『名主』、『肝煎り』と書いた時、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道の反対側(『天満屋』側)では、信号待ちする『ノートルダム清心』の制服を着た高校生らしき少女のその母親が、
「たぬき~?」
とすッとぼけたような声を出した。
「何、云いよるんならあ。『たぬき』じゃのうて、『たのきゅう』じゃ」
少女の父親が、呆れたような表情で妻に答えた。
「何が、楽しゅうなんか、知らんけど、それがどしたん?」
「『田能久』(たのきゅう)は、すき焼き屋じゃけえ」
「アンタあ、食い意地が張っとるねえ。さっき、お好み焼き食べたばっかりじゃないね」
「お好み焼き屋に、『すみちゃん 』はおらんけえのお」
(続く)
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