「え!?『シーボルト』!?」
と、『少年』は、予期していなかった昔の外国人の名前を耳にし、宵闇の中ながら、顔を輝かせた。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明したのだ。
「『シーボルト』って、オランダ人のお医者さんでしょ?」
『少年』は、『シーボルト』の存在を知っていた。しかし、
「うーむ、確かに、『シーボルト』は、オランダ人だが、『シーボルト』は、正しくは『シーボルト』ではなかったんだ」
と、『少年』の父親は、『少年』に腸捻転を起こしかねない意味不明な説明を始めた。
「『シーボルト』は、実は、『ズィーボルト』なんだ」
「ええ?」
と、父親を凝視める『少年』の眼には、心配と憐れみとが混じっているようにも見えた。尊敬する聡明の権化のような父親が、脳に異常でもきたしたのではないか、と思ったのだ。
「『シーボルト』は、オランダ語で発音した場合で、ドイツ語では、『ズィーボルト』になるんだ。ドイツ南部では、『スィーボルト』と発音すると聞いたこともあるけどな」
と、『少年』の父親は、また手帳を取り出して開き、そこに、自身のモンブランの万年筆で、『Siebold』と書いた。
「どうして、『シーボルト』をドイツ語で読むの?」
「『Siebold』が、ドイツ人の姓だからだよ」
「ええ?ええ!?『シーボルト』って、まさかドイツ人なの?」
と、『少年』が、通りすがる人が振り返る程の大きな声を出した時、
「『和製ジェームズ・ディーン』よね」
えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道の反対側(『天満屋』側)で信号待ちする『ノートルダム清心』の制服を着た高校生らしき少女が、虚空に憧れの人を見上げるようにして、横に立つ父親に説明した。
「なんやあ、『和製ジェームズ・ディーン』いうんは?」
少女の父親は、娘が信号待ちしながら、いきなり『トニー』と口にしたのを聞き、どこかに『トニー谷』がいるのかと思ったのであったが、娘は、父親が知らない人物の名前、いや、俗称を持ち出してきたのだ。
「『赤木圭一郎』よね」
映画会社『日活』のスター俳優『赤木圭一郎』は、『和製ジェームズ・ディーン』と呼ばれていたのだ。少女は、横断歩道の反対側で、中央通りの方向に向ってくる『少年』を、『和製ジェームズ・ディーン』と見たのであった。
(続く)
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