「夫が妻のところに通う結婚、ってどういうことなの?」
と、『少年』が、『妻問婚』の意味、内容を問う。牛田方面に向う『青バス』(広電バス)の中であった。
「夫が妻のところに通って、どうして結婚したことになるの?」
と、『少年』は、同じ質問を重ねる。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明し、更に、その『シーボルト』が、オランダ人として日本に入国したものの、実はドイツ人の医者であったこと、更には、日本の女性との間に娘をもうけたことを説明したところ、『少年』が、『シーボルト』は日本で日本の女性と結婚したんだね、と確認してきた為、当時(江戸時代)の結婚というものの説明まで始めることとなり、結婚の際に必要となった書類の説明や、それに関連した宗教、宗派のこと等を説明し、『少年』の理解を得た。しかし、『少年』は、『シーボルト』は、要するに、日本の女性とどう結婚したのか、という質問に立ち戻ってきた為、『少年』の父親は、そもそも国際結婚は今でも容易ではないことを説明し、国際結婚ががちゃんと認められるようになったのは、明治6年に制定された明治6年に制定の『内外人民婚姻条規』であり、その法律の制定にあたり参考にされたという『ナポレオン法典』について説明し、『ナポレオン法典』を『仏蘭西法律書』という名前の書物に翻訳した『箕作麟祥』(みつくり・りんしょう)のこと、『箕作麟祥』の師である『坂野長英』、更には、同じく『坂野長英』を師とした『高野長英』、『箕作麟祥』の父親である『箕作阮甫』のことまで説明していたが、ようやく話のテーマは、当時(江戸時代)の結婚へと戻ってきたところで、父親が、原始時代には、お役所の届(書類)を提出するような形式での結婚はあり得なかったであろうことを説明し、では、『少年』に『結婚とは何か?』という根元的な問いを投げかけ、『少年』が、男の人と女の人が、一緒に住むことだろう、と答え、父親が、古墳時代には、『妻問婚』という夫が妻のところに通う結婚が一般的だったらしいと説明したことに、『少年』は理解が及ばないでいたのだ。
「あ…んん、それは…」
と、普段は、何事にも動じない『少年』の父親が、珍しく、言葉を詰まらせた。
「夫が妻のところに通って、どうするの?」
『少年』は、意図したものではないようだが、追い打ちをかける。
「ん、まあ、それは…そう、そりゃ、夫婦だから仲良くするのさ」
「じゃあ、一緒に住めばいいのに」
「そりゃ、仕事が忙しくて、夜しか奥さんのところに行けなかったりしたんだろうな」
「ふううん、なんか変なの。父さんだって、すっごく忙しいけど、母さんやボクたちと一緒に住んでるのにねえ。でも、妻のところに通う結婚って、いつから結婚したことになるの?」
「うっ….ううう….それはだなあ….餅だよ」
と、『少年』の父親が、突然、妙なものを説明に持ち出した時、
「『ハンカチ大学』は、少なくともウチの商学部は、女の子子が少ないし、その女の子も、田舎臭い子が多いものなあ…」
バスの中の他の誰にも聞き取れない程度の小さな声が、呟きを続けていた。呟きの主は、どうやら、最近、『看護科』ができたという広島の進学校である広島県立広島皆実高校の出身で、『ハンカチ大学』の商学部に在籍しているようであった。
(続く)
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