2017年7月14日金曜日

à moi la liberté(自由を我に)【ヨーロッパ出張記】(その6)





1989年6月25日から7月2日まで、エヴァンジェリスト氏はパリにいた。出張である。

「凱旋門」に登った。その後に、「シャンゼリゼ通り」を、パリの街を歩いた。



しかし、楽しくはなかった。上司と一緒だったからだ。

パリでも、パリに来る前にいた米国でも(ロサンゼルス、ニューヨークでも)、ホテルの部屋にいる時以外は、ずっと上司と一緒なのであったのだ。

そして、その上司は、自分のしたいこと、自分に行きたいところに行くだけで、エヴァンジェリスト氏の意向を聞こうとはしない人だったのである。

だから、エヴァンジェリスト氏は心の中で叫ぶのであった。

「A moi La liberté(自由を我に)」

しかし、「自由」のない中で、エヴァンジェリスト氏はパリの街を必死で見た。その様子を必死でカメラに収めた。



「シャンゼリゼ通り」を美しい清掃人、美しい清掃車が清掃していた。

しかし、その磨き方が普段とは少々違うのではないか、と思ったのであった。

普段のパリ、普段の「シャンゼリゼ通り」を知っている訳ではなかったが、エヴァンジェリスト氏は、その「清掃」の様子に普段との差を感じたのだ。



そうだ、その年(1989年)は、フランスにとってただの年ではなかったのだ。

間も無く来る革命記念日(パリ祭)は、普段の年の革命記念日ではなかったのだ。

1989年は、革命200年の記念の年であったのだ。

1789年7月14日、バスティーユ襲撃を契機に革命が発生した。「フランス革命」である。

1989年の7月14日は、その「フランス革命」から200年の記念すべき革命記念日となるのであった。

革命200年祭である。「bicentenaire」と云われていた。正式には、「Le bicentenaire de la Révolution」である。

その年(1989年)、エヴァンジェリスト氏がパリにいたのは、仕事で用があったから、つまり出張だったからである、「bicentenaire」であったからではない。

記念すべき年のパリを見たかったからではない。既に述べた通り、フランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院の修士課程を修了したものの、エヴァンジェリスト氏は、フランスが好きであった訳ではないのだ。関心もなかったのである。

「bicentenaire」の時にパリにいたのは、「たまたま」なのであった。

「フランス革命」は世界史で習い、知らないことはなかったが、詳しくは知らない。しかし、「フランス革命」から200年の時にパリにいるのだと知り、フランスに興味はないとはいえ、エヴァは、ある種の感慨を覚えるのであった。

しかし、シャイヨー宮からエッフェル塔を見た時、疑問が生じた。

ライトアッされた夜のエッフェル塔に浮かび上がっていた文字は、「100 ans」であったのだ。




「100 ans」は、「100年」である。何故、「200 ans」ではないのだ。「200年」のはずではないのか?


(続く)



2017年7月12日水曜日

à moi la liberté(自由を我に)【ヨーロッパ出張記】(その5)





1989年6月25日、エヴァンジェリスト氏は、宿泊するホテル・カリフォルニアの直ぐ近くにある「凱旋門」(エトワール凱旋門)の屋上から「シャンゼリゼ通り」、「新凱旋門」を見、そして、最後に、「シャンゼリゼ通り」に向って斜め左方面を見た。

フリードラン通り(Avenue de Friedland)方面だ。当時のエヴァンジェリスト氏には、その方面に、「サン・オーギュスタン教会(Eglise Saint Augustin)」「モンマルトル(Montmartre)」が見えている認識はなかったのであったが。

その後、「凱旋門」を降り、「シャンゼリゼ通り」を歩いた。

歩きながら、必死でカメラのシャッターを幾度か押した。勝手にさっさと先を歩いていく上司を見失わないようにしながら。

そうなのだ。「凱旋門」に登ったのも、上司と一緒なのであった。「シャンゼリゼ通り」を歩くのも上司と一緒なのであった。

パリに来る前に行った米国でも(ロサンゼルス、ニューヨークでも)、ホテルの部屋にいる時以外は、ずっと上司と一緒なのであったのだ。

そして、その上司は、自分のしたいこと、自分に行きたいところに行くだけで、エヴァンジェリスト氏の意向を聞こうとはしない人だったのである。

だから、エヴァンジェリスト氏は心の中で叫ぶのだ。

「A moi La liberté(自由を我に)」

しかし、「シャンゼリゼ通り」で先を行く上司を追いながら、カメラのシャッターを押すエヴァンジェリスト氏は、心の中で

「A moi La liberté(自由を我に)」

とは叫んでいなかった。

それよりも街の様子が気になったのだ。

「シャンゼリゼ通り」では、色々なところで清掃が行われていた。

緑と白の制服で清掃をする人がいた。それは、制服を着た清掃人というよりも、緑と白の衣装を着た役者が清掃を演じている、とさえ見えた。箒の先も緑色に染められていた。



運転席全体が丸っぽいガラスに覆われた、やはり緑色を基調にした清掃車もいた。それは、清掃車というよりも自動車ショーに展示られたコンセプト・カーのようであった。



パリは、「シャンゼリゼ通り」は、清掃もお洒落であったのだ。

それは、日本では考えられない光景であった。だから、エヴァンジェリスト氏はカメラをそれらに向け、必死でシャッターを押したのだ。

日本に限らないかもしれないが、清掃を仕事とする人の制服は特段、お洒落なものではない。清掃車も如何にも清掃車然としたものである。

「清掃」ももっとお洒落であっていいではないか。「清掃」は、汚いものを取り除くのではなく、美しいものを作り上げるものであるのだ。

そうであるなら、清掃人も清掃車もお洒落であっていいではないか。いや、お洒落であるべきではないか。

パリの、「シャンゼリゼ通り」の、いや「フランス」のその発想の自由さにエヴァは魅入られたのだ。だから、シャッターを押したのだ。

エヴァンジェリスト氏は、そう思うと、心の中で叫んだ。

「A moi La liberté(自由を我に)」

しかし、誰かに(他者に)対して、我に「自由」を与えよ、という叫びではなかった。

自分自身に対して、「自由」な発想、「自由」な行動をとれ、という叫びであったのだ。

美しい清掃人、美しい清掃車が清掃する「シャンゼリゼ通り」は、美しかった。

しかし、その磨き方が普段とは少々違うのではないか、と思った。

普段のパリ、普段の「シャンゼリゼ通り」を知っている訳ではなかったが、エヴァンジェリスト氏は、その「清掃」の様子に普段との差を感じたのだ。

強力な水噴射器でビルの壁の汚れを落とす人もいたのだ。





(続く)


à moi la liberté(自由を我に)【ヨーロッパ出張記】(その4)





1989年6月25日、エヴァンジェリスト氏は、宿泊するホテル・カリフォルニアの直ぐ近くにある「凱旋門」の屋上から「シャンゼリゼ通り」を見、次に、反対側に行き、遠くに、「新凱旋門」を見た。

そして、最後に、「シャンゼリゼ通り」に向って斜め左方面を見た。

フリードラン通り(Avenue de Friedland)方面である。



その先にあるドーム建築は、その時は何かは知らなかった。

フランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院のフランス文学専攻の修士課程を修了したものの、エヴァンジェリスト氏は、フランス文学にも、フランスという国にも興味はなかったのだ。

ほんの一時期、ハナヱモリ.グループに籍を置き、森英恵先生と個人面談をした際にも可愛げのないことを云ったくらいなのだ。

森英恵先生は、若きエヴァンジェリスト氏に優しく云ってくれた。

「あなた、フランスに行きたいんでしょ?」

エヴァンジェリスト氏は、失礼にも森英恵「大先生」(本当に偉大な先生なのだ)に、ただこう答えたのだ。

「いいえ」

それは嘘ではなかったのだ。

そうだ、エヴァンジェリスト氏がハナヱモリ.グループに入社したのは、ファッションが好きだったからでもなく、ファッションにつながるフランスが好きだったのでもなく、ただただ、当時好きだった女性が、同じファッション業界に入っていたからだったのである。




「あなた、フランスに行きたいんでしょ?」

という森英恵先生の言葉に、

「はい!」

と応えていれば、若きエヴァンジェリスト氏は、早々にフランス出張をするか、フランス勤務していたかもしれない。

しかし、エヴァンジェリスト氏の答は、

「いいえ」

であったのだ。

そのくらいなので、パリに、エッフェル塔や凱旋門、ルーブル美術館があるくらいは知っていたが、そのほかにどんな建物やどんな場所があるかは知らなかった。

エトワール凱旋門からフリードラン通り(Avenue de Friedland)方面の先にあるドーム建築が、「サン・オーギュスタン教会(Eglise Sait Augustin)」であることは、その時は知らなかった。



そして、「サン・オーギュスタン教会(Eglise Sait Augustin)」のさらに斜め左方面にある丘にも、その時(1989年)、エヴァンジェリスト氏は気付かなかった。

「モンマルトル(Montmartre)」である。



「モンマルトル」は知らなくはなかったが、「モンマルトル」に興味はなかった。だから、「凱旋門」の屋上から、「モンマルトル」を探すことはなかったし、「モンマルトル」が見えていてもそれと気付かなかったのだ。

「モンマルトル」が芸術家たちの街であることは知っていたが、興味はなかったので、1989年のパリ滞在の間には、「モンマルトル」まで行くこともなかった(その2年後には、「モンマルトル」の丘を登ることにはなったのだが)。

仮に、「モンマルトル」に興味があったとしても、1989年のパリ滞在中のエヴァンジェリスト氏には「自由」がなかったのだ。

だから、「凱旋門」の屋上で、「モンマルトル」を探すでもなく、ただ心の中でこう叫んでいたのだ。

「A moi La liberté(自由を我に)」

その時、「モンマルトル」に気付いたら、それは、広島の「比治山」に似ている、と思ったかもしれない。



「比治山」には、蒲鉾形の建物が特徴的な「放射線影響研究所」(以前は、ABCC=「原爆傷害調査委員会」という米国の機関であった)があり、「モンマルトル」とは少々イメージは違う(「比治山」には、「ひろしま文芸の碑」や「正岡子規句碑」があるので、芸術と縁がなくはない)。



しかし、小高い丘であることは「モンマルトル」に似てはいた。

また、その時、「モンマルトル」まで行っていたならば、東京の「愛宕山」に似ている、と思ったかもしれない。「愛宕山」も「比治山」のように小高い丘のような山である。

「モンマルトル」の階段は、「愛宕山」の階段に似ている、と思ったかもしれない。



しかし、その時、エヴァンジェリスト氏は、心の中でこう叫んでいたのだ。

「A moi La liberté(自由を我に)」

1989年のパリのエヴァンジェリスト氏には、パリの街を散策する「自由」はなかった。仮に、「モンマルトル」に興味があったとしても、「モンマルトル」まで行くことは不可能であったのだ。



(続く)









2017年7月10日月曜日

à moi la liberté(自由を我に)【ヨーロッパ出張記】(その3)





1989年6月25日、エヴァンジェリスト氏は、宿泊するホテル・カリフォルニアの直ぐ近くにある「凱旋門」の屋上から「シャンゼリゼ通り」を見た。

そして次に、反対側に行き、遠くに、「新凱旋門」を見た。



「新凱旋門」は、「グランダルシュ(la Grande Arche)」である。正式名称は、「la Grande Arche de la Fraternité (友愛の大アーチ)」というらしい。

エヴァンジェリスト氏が登った「凱旋門」は、正式には「エトワール凱旋門」だ。フランス語では、「Arc de triomphe de l'Étoile」である。「エトワール広場の勝利(triomphe)のアーチ」なのだ。

一方、「新凱旋門」の名前(正式名称)は、既に確認した通りで、そこには勝利(triomphe)の文字はない。

そう、「新凱旋門」は、『凱旋門』ではないのだ。「新凱旋門」は、日本名なのである。

しかも、実際には「門」(Arche)でもなく、高層ビルなのだそうだ。

しかし、設計者ヨハン・オットー・フォン・スプレッケルセンと建築技師エリック・ライツェルは、名称は兎も角、『凱旋門』として「新凱旋門」を作ったようではある。それは、形状を見れば明らかだ。

「新凱旋門」は、新古典主義の代表建築と云われる「エトワール凱旋門」とは趣を全く異にする現代建築だ。

ローマ帝国の「凱旋門」を模したと云われる「カルーゼル凱旋門」とも全く異なる様式だ。

「古典」を感じさせる「カルーゼル凱旋門」、「エトワール凱旋門」に挑戦するかのごとく、その2つの「凱旋門」の先に、一直線の先に「新凱旋門」を作ったことは、如何にもフランス人だと思わせるものである。

フランス人は「自由」なのだ。

しかし、日本にもフランス人に負けない「自由」な人たちがいる。

これを見よ!




これも「凱旋門」ではないか?

実際、「未来の凱旋門」とも呼ばれているようだ。

ご存じの方もあろう。これは、大阪にある「梅田スカイビル」だ。「梅田スカイビル」は、「新凱旋門」が落成して4年後に(1993年)建てられた。

しかし、大阪人は云うかもしれない。

「こっち(梅田スカイビル)の方が、勝ってるで!こっちの方が(新凱旋門より)高いでえ!」

そう、「新凱旋門」は、110mの35階、「梅田スカイビル」は、173mの40階であるのだ。

「梅田スカイビル」は、タワー・イースト(東棟)とタワー・ウエスト(西棟)の2棟があり、その2棟の天辺が円形の空中庭園展望台でを連結されている。

大阪人の「自由」を「梅田スカイビル」に見ることができる。大阪には、この他にも個性的なビルが多い。

「エトワール凱旋門」に登った16年度(2005年)、「なにわの凱旋門」(梅田スカイビル)に登ることになるのだが、1989年のパリでエヴァンジェリスト氏はまだそのことを知らない。

2005年、エヴァンジェリスト氏は、淀川を眺望できる「梅田スカイビル」で、あるセミナーを開催したのだ。



「自由」の地(大阪)で、「自由の凱旋門」(梅田スカイビル)の中で、エヴァンジェリスト氏の同僚も楽しそうである。




しかし、「新凱旋門」を見る1989年パリのエヴァンジェリスト氏には「自由」がなかった。

「自由」を感じさせる「新凱旋門」を見ながら、心の中で叫んだ。

「A moi La Liberté」

「新凱旋門」は、遠くから見ただけで、そこに行くことはしなかった。行って、中に入ることもしなかった。

その「自由」がなかった訳ではない。それ以前の問題であった。

その日(1989年6月25日)、「新凱旋門」はまだ落成していなかったのだ。

「新凱旋門」は、1989年7月14日、革命記念日に落成記念式典が執り行われたのである。

1989年7月14日の革命記念日は、特別な革命記念日であったのだ。



(続く)









2017年7月9日日曜日

à moi la liberté(自由を我に)【ヨーロッパ出張記】(その2)





1989年6月25日、エヴァンジェリスト氏は、宿泊するホテル・カリフォルニアを出て、直ぐ近くにある凱旋門まで行った。




凱旋門の入場料は、22フランであった。

屋上までは、螺旋階段で登る。凱旋門は低くはない。そこを階段で登ったのだ。何階あったのか覚えていなかったが、どうやら12階らしい。

特に辛かったという記憶はない。エヴァンジェリスト氏はまだ35歳。若かったのだ。


凱旋門の屋上に着き、眼下には、「シャンゼリゼ通り」があった。鳥瞰する「シャンゼリゼ通り」は、美しかった。



「シャンゼリゼ通り」は、美しかったが、「déjà vu」感(既視感)があった。



そうだ、東京は国立市にある「大学通り」だ。一橋大学に挟まれている通りだ。だから、「大学通り」だ。

「大学通り」は、真っ直ぐな道路の両脇に並木があり、その外に歩道がある。「シャンゼリゼ通り」のように。




国立市は、この美しい「大学通り」のイメージもあり、高級住宅街だ。都心から離れているのに不動産価格は高い。

「シャンゼリゼ通り」に似ているから、「大学通り」の街灯は、「シャンゼリゼ通り」と同じものを使っていると聞く。



凱旋門の屋上で、「シャンゼリゼ通り」を見下ろしながら、エヴァンジェリスト氏は心の中で唄った。

ダニエル・ビダルが唄った「オー・シャンゼリゼ(原題:Les Champs-Élysées)」ではない。

「オー・シャンゼリゼ!」

ではなく、

「A moi La Liberté!」

と唄った。

ルネ・クレール監督の映画「A nous La Liberté(自由を我等に)」の

「A nous, A nous,  La Liberté」

と同じように、

「A moi, A moi,  La Liberté」

と唄った。

「シャンゼリゼ通り」を見下ろしながら、エヴァンジェリスト氏は、家族を想い出していた。妻とその年、4歳になる息子を想い出した。

パリに来るのであれば、妻と息子と来たかった。

「A moi La Liberté(自由を我に)!」


(続く)









2017年7月8日土曜日

à moi la liberté(自由を我に)【ヨーロッパ出張記】(その1)



「A moi La Liberté!」

とエヴァンジェリスト氏は、ホテル・カリフォルニアの部屋で叫んだ。

1989年6月のパリでのことであった。

「A moi La Liberté(自由を我に)!」

魂の叫びであった。エヴァンジェリスト氏には、自由がなかったのだ。



1989年6月25日、エヴァンジェリスト氏は、シャルル・ドゴール空港に降り立った。

「Voulez-vous nous conduire à L’Hotel California?」

タクシーの運転手に、ホテル・カリフォルニアまで行くようお願いした。

必死のフランス語で依頼した。

フランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院の修士課程を修了したものの、エヴァンジェリスト氏は、フランス語を聞き取る訓練も喋る訓練も受けたことはなかったのである。

しかし、フランス語を知らない訳ではない。予め、タクシーに乗車して、どう行き先を告げればいいのか確認しておき、必死で云ったのだ。

「Voulez-vous nous conduire à L’Hotel California(ホテル・カリフォルニアまでお願いします)?」

ホテル・カリフォルニアは、パリは凱旋門近くにあるホテルである。4つ星デラックスの老舗ホテルであった。



当時、まだ35歳であったエヴァンジェリスト氏には少々豪華すぎるホテルであったかもしれない。

しかし、出張で訪問した先の相手に、どこに泊まっているのか、訊かれた時に恥ずかしくないホテルを、と同行した上司が考えたのである。

その点だけは、上司は正しかった、その点だけは。

その時、エヴァンジェリスト氏には『自由』はなかった。ホテル・カリフォルニアにチェックインする前から、『自由』はなかった。

いや、パリに入る前から、いやいや、シャルル・ドゴール空港に到着する前から、エヴァンジェリスト氏には『自由』はなかったのだ。

「A moi La Liberté!」




ホテル・カリフォルニアの中庭に面した部屋で、エヴァンジェリスト氏は叫んだ。



(続く)









アムステルダムで『彼女』に会った(その6)【ヨーロッパ出張記】(最終回)






2017年7月5日午後、三陸鉄道久慈駅は、人影もまばらであった。『あまちゃん』で『北三陸鉄道 北三陸駅』となった駅である。



1984年、『北三陸鉄道』が開業した日(4月1日のはずだ)、そこにはドラマがあった。『あまちゃん』こと『天野アキ』の母親である『天野春子』が、北三陸鉄道に乗って故郷を飛び出したのだ。

その18歳の『天野春子』を演じたのは、現在(2017年7月)、『あまちゃん』と同じくNHKの朝ドラである『ひよっこ』の主人公『谷田部みね子』を演じている『有村架純』である。

『有村架純』は、『あまちゃん』こと『天野アキ』を演じた、『本名・能年玲奈』の『のん』よりも今、売れている。


1989年(今から28年前だ)の7月5日のアムステルダムで遭遇した『彼女』は、『有村架純』よりも、はるかに有名な日本人女性であった。

その『彼女』に会う前、エヴァンジェリスト氏はまだアムステルダムの街を彷徨い、チーズ屋さんでゴーダチーズも見かけていたが、その時(1989年当時)、本場のゴーダチーズを食べておけばよかった、と後にエヴァンジェリスト氏は後悔する。

しかし、ゴーダチーズに限らず、1989年7月のエヴァンジェリスト氏は、折角、オランダにいたにも拘らず、現地の食べ物を殆ど、いや全く口にしなかった。

上司と一緒で、上司が食べたいものをただ一緒に食べただけであったからだ。

上司は、日本食を食いたい、と云った。

そして、そこには日本食を食べさせてくれる店がちゃんとあったのだ。

上司とエヴァとは、ホテル・オークラ・アムステルダムにある和食レストランに行った。滞在中、そこにしか行かなかったように記憶する。

『山里』という名前の和食レストランであったかと思う。

その『山里』で、エヴァンジェリスト氏は『彼女』に会ったのである。

『彼女』は『山里』に入ってくるなり、大きな声で云った。

「この人たち、ニューヨークから来たの。美味しいものを食べさせてあげて!」

『この人たち』とは、欧米人であった。

そして、『この人たち』と云った『彼女』は黒っぽい服装をした日本人女性であった。

日本人女性と分ったのは、

「この人たち、ニューヨークから来たの。美味しいものを食べさせてあげて!」

と云った言葉が、日本語であったからだ。

そして、『彼女』をエヴァンジェリスト氏は知っていたからであった。

『彼女』に会ったのは、その時が初めてであったが、『彼女』のことは知っていた。『彼女』は有名人であったからだ。

『彼女』は、世界的な有名人であった。

『彼女』は、オノ・ヨーコさんであった。



エヴァンジェリスト氏は、ビートルズ・ファンでも、ジョン・レノンのファンでもなかったが、ジョン・レノン夫人であるオノ・ヨーコさんのことは知っていた。



オノ・ヨーコさんが何故、アムステルダムにいたのか、エヴァンジェリスト氏は知らなかった。興味もなかった。

オノ・ヨーコさんを和食レストラン『山里』で見かけて、

「あ、オノ・ヨーコだ」

と思っただけであった。

ジョン・レノンのファンであれば、その時、オノ・ヨーコさんが何故、アムステルダムにいたのか、は分からないにしても、オノ・ヨーコさんがアムステルダムにいることに感慨を抱いたはずであった。

アムステルダムは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコさんが平和を訴えるパフォーマンス「ベッドイン」を行った地であったからだ。



しかし、エヴァンジェリスト氏は、その時、ただ

「あ、オノ・ヨーコだ」

と思っただけであったのだ。

そして、そのまま、「寒かった」、という思い出くらいしか持たないまま、1989年7月5日、アムステルダム・スキポール空港から日本へと帰国の途についたのであった。



飛行機は、途中、アンカレッジを経由した。当時は、日本-ヨロッパの飛行機便は、給油の為に、アラスカのアンカッジを経由していたのだ。

アンカレッジの空港に降り立った時、エヴァンジェリスト氏は感慨にふけった。

「ああ、ここが、『アンカレッジ経由パリ行き』のアンカレッジか」

と。

『アンカレッジ経由パリ行き』は、当時のアイドル歌手『秋ひとみ』の歌であった。

エヴァンジェリスト氏には、『オノ・ヨーコ』ではなく『秋ひとみ』であったのだ。



(おしまい)