2022年5月20日金曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その234]

 


「『サブタン』が、他の人たちの時間を止めて、色々な事件を解決していた間っていうのは、『サブタン』の時間は止っていなかった、ということになるのか?」


と、『サブタン』を主人公とする手塚治虫・原作のNHKテレビ・ドラマ『ふしぎな少年』について語る『少年』の父親の表情は、真剣なものであった。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「ええ?.....んんん…」


『少年』は、更に戸惑った。『時間が止る』ことを云い出したのは、父親の方なのに、『時間が止る』ことを否定しているように聞こえなくもないことを父親は云ってきたのだ。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い出してきたのである。


「『サブタン』が時間を止めて事件を解決している間って、やっぱり、時間は止っていたんじゃないの?」

「では、人間は、時間が止っている間も、行動することはできるんだな?」

「『サブタン』はね」

「ああ、そうだろうな。そうでなかったら、止っている時間と止っていない時間とが同時に存在することになるからな。それは妙だ。でも、だ。人間が、時間の止っている間も、行動できる、としたら、『時間』って一体、何なんだ?」

「父さん!『サブタン』は、お話の世界の人間だよ」


『少年』は、尊敬する父親に対して、つい強い口調となってしまった。


「では、現実の、うーむ、多分、現実であろうことを訊こう。『ビックバン』って知っているか?」

「え?大きなパン?どうして、パンの話になるの?『サブタン』は、パン食べてたかなあ?」

「いや、『パン』じゃない。『バン』だ。爆発だ。『ビッグバン』は、大爆発だ」

「ああ、間違って日本に飛んできたミサイルを、『四次元のお姉ちゃん』が、アフリカの砂漠に移動させて爆発させたことだね」




『四次元のお姉ちゃん』は、漫画版の『ふしぎな少年』に登場する四次元の世界の人間である。


「いや、ミサイルで飛んでくる爆弾の爆発なんかじゃなく、もっとずっと、ずっと大きい爆発だ」


と云って、凝視めてきた父親の瞳孔に引き込まれる、ふしぎな感覚に『少年』は捉われた。



(続く)




2022年5月19日木曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その233]

 


「ビエール、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がしているんだろう?」


と、『少年』の父親は、『少年』が待ち望んでいた当初の疑問へと話題を戻してきた。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「うん。そうだよ。バスで10分から15分くらいの間のはずなのに、父さんは、とてもそんな短い時間ではできない程、沢山のことをボクに教えてくれた」


という『少年』の言葉には、素直な感謝が込められていた。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を、こう使うのであった。


「でも、そう、『濃密」っていうのかなあ、とっても濃い時間を過ごすと、人間って、時間を長く感じるものなんだよね?」

「いや、そうとも限らん。その間、時間が止っていたかもしれん。いや、そもそも『時間』なんてあるのか?」

「そんなあ。時間が止る、なんて、『サブタン』じゃないんだから」


『少年』は、手塚治虫・原作のNHKテレビ・ドラマ『ふしぎな少年』(1961年から1962年にかけて放映)で、野球の審判のように両手を横に拡げた『セーフ!』のポーズをとって、超能力で時間を止める主人公の少年『サブタン』を思い出していた。




「『サブタン』ってドラマだし、『サブタン』が時間を止めても、他の人たちって、ちょっとグラグラ動いてたから、時間が止った感じじゃなかった」


ドラマ『ふしぎな少年』は、殆ど生放送で、実際に登場人物を動きを止めてみせることはできず、演じる役者たちが、それまで動いていた姿勢を途中でそのままに、そう、例えば、片足立ちして、動きを止め、時間が止ったように見せようとしたのであったが、勿論、完全に静止できる訳がなかった。


「『サブタン』が、時間を止めていた間、他の登場人物にとっては、まあ、グラついていたのは愛嬌として、一応、時間が止っていたんだろう。だが、時間を止めていた間に、『サブタン』は色々な事件を解決していただろう?」

「え?ええ?...うん…だけどお…」


『少年』は戸惑った。『ふしぎな少年』は、あくまでドラマで、架空のお話であり、自分は、父親にそう云ったし、そんなことは、父親には云うまでもなくことであるのに、父親は、その架空のお話のことを真面目に問うてきたのだ。



(続く)




2022年5月18日水曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その232]

 


「『Mr.サマータイム』の『サマータイム』は、父が云ったように、『夏時刻』というか『夏時間』の『サマータイム』ではなかったけれど」


と、2021年、少年ではなくなっていた『少年』が、そう思った時、あの日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、自宅へと向っている自分と父親、そして母親と妹の姿を思い出した。


「そうなんだ。『Mr.サマータイム』の『競合』は、まさに『時間』をテーマとしていたのだ!」


という少年ではなくなっていた『少年』の心の中の叫びは、体は老いても心には老いない部分があることを示していた。


あの日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。


「『時間よ止れ』かあ…」


2021年、少年ではなくなっていた『少年』は、タオルを首に巻いて、スタンドマイクを持って熱唱する歌手の姿を思い浮かべた。


『Mr.サマータイム』がカネボウ化粧品の夏のCMソングとして使われることになったその夏、資生堂の夏のCMソングは、『矢沢永吉』の『時間よ止れ』だったのである。




あの日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、映画『旅情』の原題である『サマータイム』について説明した父親は、その説明の締めとして、こう云った。


「もう『サマータイム』のことは分っただろう?そう、『サマータイム』は、一つは、『夏時刻』であり、時間なんて、法律で、人間の作為で、早められたり、遅くしたりできるものに過ぎないんだ。そして、もう一つ、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『時刻』とは関係ないが、その『過ごした夏の日々』は、『キャサリン・ヘップバーン』が演じたアメリカ人女性にとっては、濃密で、ある意味では、とても長く感じられた『時』であったのではないかと思う。いや、その『時』は、実際に長いものであったのかもしれない。止ったように長い時間であったかもしれない」

「……」


『少年』の父親の言葉は、『少年』に向けてというよりも、自分に向けてのもののようであり、『少年』は、その言葉に何も返すことはできなかった。



(続く)




2022年5月17日火曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その231]

 


「映画の『Summertime』を日本語の題名として『夏』とすると、それは違っていただろうと思う」


と、『少年』の父親は、映画『旅情』の原題が『Summertime』であることの意味の説明を続けた。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「だって、アメリカ人女性が、イタリアのベニスを旅行中に、男の人を好きになったけど、その人には奥さんがいた、っていう、ちょっと切ない話のようだからな」


と、『少年』の父親は、その『切なさ』が『少年』にはまだ理解の及ぶものではないことは分ってはいたが、そう説明せざるを得なかた。


八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。


「敢えて云うと、『過ごした夏の日々』だろうし、映画のストーリーからして、むしろ、『旅情』という邦題、日本語の題名の方が、適したものなんじゃないかと思う。『夏』という題名だと、叙情も何も感じられないし、原題の『サマータイム』のまま日本で公開すると、『夏時刻』のことと勘違いされたかもしれないしな」


何かを思い出すようにそう云った『少年』の父親は、その時(1967年である)、およそ10年程後に(1978年に)、日本のコーラス・グループ『サーカス』が、『Mr.サマータイム』という曲を発表することになることを知らなかった。


そして、『Mr.サマータイム』は、実は、元はフランスの音楽グループ『ミッシェル・フュガン&ビッグ・バザール』(Michel Fugain & Big Bazar)の1972年発表の『Une belle histoire』という楽曲(作曲:Michel FUGAIN、作詞:Pierre DELANOE)に日本語の詩(作詞:竜真知子)を付けたものであり、『Une belle histoire』は、『美しい物語』とでも訳せばいいのであろうが、その題名にも、フランス語の詩にも『夏』(フランス語では、『été』)はなく、邦題が、『Mr.サマータイム』となったのは、カネボウ化粧品の夏のCMソングとして使われることになったかららしいことも、勿論、『少年』の父親は、その時、知るはずもなかった。


しかし……


「『Une belle histoire』と『Mr.サマータイム』のことを、もし、父が、その時、知っていたら、こう云ったかもしれない……」


『少年』は、後年(2021年のことだから、『少年』はその時、もう少年ではなかったが)、シンガーソングライターの『大和田慧』が、1980年代を中心に名曲をカバーするプロジェクト『Tokimeki Records』で、『Mr.サマータイム』をカバーし、そこから『Mr.サマータイム』と『Une belle histoire』との関係を知った時、そう思った。


「『Une belle histoire』は、映画『Summertime』の邦題『旅情」に通じるものがある。『過ごした夏の日々』に思いを馳せる詩だからな」


と云うであろう父親の像が脳裡に浮かんできた。


『Une belle histoire』には、勿論、『夏時刻』としての『サマータイム』も、『過ごした夏の日々』としての『サマータイム』も登場しないが、『ヴァカンスの高速道の道端で』(au bord du chemin Sur l'autoroute des vacances)という表現があるのだ。『ヴァカンス』、つまり、夏に、そこで、2人は出会い、語り合い、別れるのである。




そして、


「『Mr.サマータイム』は、言い得て妙な題名だ。ただ『サマータイム』とすると、『夏時刻』のことと勘違いされたかもしれないが、『Mr.』がつくことで、それが『夏時刻』のことではなく、そう、『過ごした夏の日々』に関係する男とのことと想像させるからなあ」


と、愁いを込めた云い方をするであろう父親の様子も思い描いた時、少年ではなくなっていた『少年』は、1967年のあの日、父親が『少年』に向け、『サマータイム』を持ち出して来たのは、深謀遠慮であったのか、或いは、偶然であったのだろうか、と思うのであった。



(続く)




2022年5月16日月曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その230]

 


「『旅情』の原題の『サマータイム』と、『夏時刻』の『サマータイム』とは違うんだよ」


と、『少年』の父親も、『少年』の再度の疑問に、同じ回答を返した。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「でも、『サマー』って、人の名前でもないんだよね?」


『少年』の頭の中は、掴めるものは何もない空な状態になっていた。


八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態としていた。


「そうだ。人の名前とは関係ない。『夏時刻』の『サマータイム』は、英語で書くと、『summer』と『time』との間が空くんだが、『旅情』の原題の『サマータイム』は、その間が空かないんだよ」

「え?どういうこと?」

「『旅情』の原題の『サマータイム』は、多分だが、『夏』という『時』のことを指しているんだと思う」

「『夏』という『時』って、『夏』のことなんじゃないの?」

「そうだな」

「じゃあ、『サマータイム』じゃなく『サマー』でいいと思うんだけど」

「『サマー』と『サマータイム』は、微妙に違うんだろうなあ。ネイティブじゃないから、はっきりは分らないんだが…」

「ネイティブ?」


まだ、『ネイティブ』という言葉が、一般には使われていない時代であった。


「ああ、生れつき英語を話していた訳じゃないから、という意味だ。だから、はっきりは分らないんだが、『サマー』は、『夏』という季節のことで、『サマータイム』っていうと、その『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いがあるんじゃないのかなあ」

「うーん…よく分らないけどお…」

「『サマー』というと、なんだか、ただ太陽が燦々と照りつけている感じで、『サマータイム』というと、そうだなあ、映画『旅情』とは違った感じだけど、ビエールが、夏休みを過ごしている感じかもしれないなあ」

「ああ、少し分るような感じだあ」




『少年』が、夏休みに蝉捕りをする自らの姿を思い描いた時、『少年』の父親は、何か別のものを思い描いているようにも見えた。



(続く)




2022年5月15日日曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その229]

 


「『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではないんだと思う」


と、『少年』の父親は、またしても、『少年』の思考に混乱しか招かないようなことを云い出した。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「アメリカの『デイライト・セイビング・タイム』のことでもない、ということなの?」


聡明な『少年』は、綴りは分ってはいなかったが、『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)という言葉をすっかり自分のものとしていた。


八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではないと、『少年』を混乱の渦へと落とし込んで行ったのであった。


「そうだ。『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことでも『デイライト・セイビング・タイム』でもないんだと思う」

「『キャサリン・ヘップバーン』が演じたアメリカ人女性の名前が、『サマー』で、『サマー』さんが過ごした『時間』で『タイム』ってことなの?」

「『サマー』という名前の人って、聞いたことないなあ。そんな名前の人っているかなあ?いや、きっといるとは思う」


という『少年』の父親の観測は正しかった。


『クリー・サマー』(Cree Summer)とか、『サマー・リン・グロー』(Summer Lyn Glau)、『サマー・ビシル』(Summer Bishil)、『サマー・アルティス』(Summer Altice)といったアメリカの女優やモデルが、その後に(1967年より後に)出てくるのである。


もっと有名な人物では、グラミー賞を5回も受賞する歌手『ドナ・サマー』(Donna Summer)もいるが(本名は、『LaDonna Andrea Gaines』である)、彼女もデビューは、1968年であり、この時はまだ『少年』の父親が、その存在を知るはずもなかった。


「日本人もそうだけど、色々な名前の人がいて、まさかというような名前の人だっているからなあ」


と付け加えた『少年』の父親の言葉は、21世紀に入ってから、日本人から『サマー』という名前の付く人物が登場することを予言していたものとも云えた。タレントの『ファーストサマーウイカ』である(本名は、『堂島初夏』で、『初夏』だから、『『ファーストサマー』であり『ウイカ』であるらしい)。




「でも、『旅情』の原題である『サマータイム』の『サマー』は、人の名前ではないはずだ」

「じゃあ、『旅情』の原題の『サマータイム』って、一体何なの?」


『少年』は、疑問の根本に立ち戻った。



(続く)




2022年5月14日土曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その228]

 


「うーむ…そうじゃないだろうなあ、多分」


と、『少年』の父親は、ようやく辿り着いた『少年』の合点を打ち消してきた。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「『旅情』は、アメリカとイギリスの合作だから、絶対にそうじゃない、とは云い切れないけど、アメリカには『サマータイム』はないからなあ」

「ええー!?」


『少年』は、納得のいかなさを声音に隠さない。


八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカには『サマータイム』はないと、『少年』には納得のいくはずもないことを云い出してきたのだ。


「だって、アメリカも、『強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりする』って、父さん、云ったじゃない」

「ああ、云ったな」

「それって、『サマータイム』でしょ!?」

「まあ、『サマータイム』と云えばそうであるだろうが、アメリカでは、『サマータイム』じゃないんだ」

「まさか、『サンマータイム』じゃないよね?」

「はははは!勿論、そうじゃないさ。アメリカでは、『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)って云うんだ。『デイライト』(daylight)、つまり、日光、日照を『セイブ』(save)する、つまり、保つ、かなあ、『タイム』(time)、つまり、時間で、日照を保つ時間、といった意味で、所謂、『サマータイム』のことだな」




「へええ、『サマータイム』のことをそんな云い方をするんだね、アメリカでは。だったら、『旅情』の原題は、『サマータイム』じゃなく、その『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)にすればよかったんじゃないのかなあ?」


と、『少年』は、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、という疑問に立戻らず、迂闊にも、映画の題名の問題に言及してしまった。



(続く)