『少年』は、翠町にあった済世愛児園という幼稚園の時代、宇品にあった自宅は、風呂は共同風呂の長屋で、まだテレビもなく、毎週金曜日の夜には、お向かいのトコトコさんの家に、テレビを見せてもらいに行くという貧しい暮らしながら、ハブテン少年ではあったのだ(いや、当時は、まだ『幼児』と云うべきであったであろうが)。
だって、ハブテルと、
「あんたあ、ハブテンさんな」
と母親に叱られるのだ。
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(ハブテン少年[その11]の続き)
「(お母ちゃんは、まだかのう?)」
自宅に戻ったエヴァンジェリスト少年は、彼が中学に入ると働きに出始めた母親の帰宅を待った。
「(比治山の方じゃ、云うとったのお)」
母親は、比治山近くのお寺に設けられた『留守家庭児童会』で働き始めたのだ。『留守家庭児童会』は、日中保護者が家にいなくて、下校しても家に誰もいない児童を、保護者が帰宅する時間帯まで預かる施設だ(今時は、学童保育ともいうようだ)。広島市が設けた施設である。
「(お母ちゃん、昔、教師やっとたあいうけえ)」
エヴァンジェリスト少年の母親は、戦中戦後(昭和20年前後)、音戸で(今の呉市音戸町で)『助教』(代用教員)をしていたので、勉強も含め児童の面倒をみる仕事に自分は向いていると考えたのであろう。また、極めて社交的な性格で、大人しく専業主婦をしているタイプの女性でもなかった。
「(お寺なんかあ)」
その時はまだ、母親の勤める『留守家庭児童会』に行ったことはなかったのだ。
しかし、やがて頻繁に顔を出すようになり、その『留守家庭児童会』のあるお寺の住職(『留守家庭児童会』の責任者)の『当時』小学生の息子(現在の住職)から、
「なんとハンサムな人なんじゃろう」
と思われるようになるのだが、そのことを知るのは、それから40年程、後のことである。
「(電車じゃけえ、『県病院前』じゃろ)」
母親は、『当時』、広島県立病院の他に広陵高校もあった『県病院前』の電停から、ちんちん電車(広島電鉄の路面電車)で通勤するようになっていた。翠町(といっても、西旭町に隣接する翠町の東端だ)の自宅から、『県病院前』の電停までは、徒歩で15分くらいかかるが、そろそろ帰宅してもいい時間ではあった。
「(帰ってきたら、お母ちゃんに云わんといけん)」
エヴァンジェリスト少年は、自分の勉強机の間に座り、そこにはいないムジカ先生を睨みつけるようにし、腕組みをした。
(続く)
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