『少年』は、その年(1967年)に、東洋工業(現在のマツダ)が発売した世界初のロータリーエンジン搭載の車である『コスモ』のボディ設計を父親がしたものの、家が裕福になった訳ではなかったが、そんなことではハブテン少年ではあったのだ。
だって、ハブテルと、
「あんたあ、ハブテンさんな」
と母親に叱られるのだ。
************************
(ハブテン少年[その55]の続き)
「負けんけええの!」
「何、云うとるんやあ!こっちが勝つけえ!」
「カバチ垂れるなや!」
言葉だけ捉えると喧嘩しているようであったが、生徒たちの顔は、喜びに満ちていた。コートで飛び跳ね、体をぶつけ合っていた。『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)1年生であるエヴァンジェリスト少年のクラスの男子生徒たちが、校庭のバスケットボールのコートにいた。
「お前ら、静かにせえ!」
パンヤ先生の怒声が、浮かれる生徒たちの頭上から落ちてきた。
「こりゃ、授業じゃ!遊びじゃないけえのお!ええけえ、そこに並べ!」
パンヤ先生の号令で、生徒たちは、コートの端に並んだ。
「今から、ドリブル教えたる」
「おおおー!」
「五月蝿い!、見本、見せるけえ、よー見とれえ!」
と云うと、パンヤ先生は、バスケットボールをコートに斜め前方に叩きつけ、前進して行った。
「ポン!ポン!ポン!」
さすが体育の教員免許を持っているだけのことはある。パンヤ先生のドリブルは、見事であった。
「おおおー!」
コートの反対側まで行くと、振り返り、またドリブルして、生徒たちのところまで戻って来た。
「ほいじゃあ、5人ずつ、今やったみたいにドリブルして来い!」
「ハーイ!」
生徒たちは、勇んでドリブルをして行った。そして、エヴァンジェリスト少年の番となり、彼もそつなくドリブルをこなした。小学生の時、ソフトボールでは、『ライ9』(ライトで9番)という少々情けない子どもであったが、それは運動神経が劣っていたのではなく、野球の理論を知らなかっただけであったのだ。
生徒たちのドリブルが一巡すると、パンヤ先生が、ギョロッとした眼で、声をかけた。
「どうじゃ、楽しいか?」
笑顔の生徒たちに、まだまだ子どもの(つまり、『甘い』)生徒たちの笑顔に、そう語りかけた。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿