『少年』は、父親が勤務する東洋工業(現在のマツダ)が1957年に発売を開始したオート三輪トラック『T1550/T2000』のデザインも好きだったものの、やはり三輪車なので安定性にかけているようにも思えたが、そんなことではハブテン少年ではあったのだ。
だって、ハブテルと、
「あんたあ、ハブテンさんな」
と母親に叱られるのだ。
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(ハブテン少年[その62]の続き)
「(ここでやるのかあ…..)」
小学校の頃から、毎年、学級委員を務め、『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の1年生であるその年(1967年)も、2学期、級長になっていたエヴァンジェリスト少年は、人前に立つこと、そこで何かを話したり、仕切ったりすることには慣れていたが、そこでは、少し緊張した。
「(体育館とは違う)」
ステージで演奏するのだ。それは初めてだ。しかし、『ミナミショー』(広島市立皆実小学校)でも『ミドリチュー』でも体育館のステージ上がったことはある。でも、そこで演奏したことはない。
「(階段になっている)」
そこは、『シミンキュウジョー』(広島市民球場)の隣にある『広島市青少年センター』である。原爆ドームも近い。
「(映画館みたいだ)」
『青少年センター』のホールは、劇場、映画館のように、客席が階段になっている。
「(音楽教室の階段の席とは規模が違う)」
音楽教室も階段教室であったが、それとは比べようもないのは当然だ。
「(客席がかなり遠くまである)」
ステージから、遠い上の方の席を見上げる。
「(ついに今日が来た……)」
その日は、『ミドリチュー』の文化祭の日であった。『ミドリチュー』の文化祭のイベントの一つとして、ブラスバンド部(吹奏楽部)は、『広島市青少年センター』で演奏するのだ。曲目は勿論、交響詩『フィンランディア』だ。
「(どこだろう…..?)」
(続く)
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