2020年8月30日日曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その100]






いや、正確に云うと、『田村書店』だ」

鎌倉文学館で開催されていた特別展「ビブリア古書堂の事件手帖」を周りながら、エヴァンジェリスト氏は、ビエール・トンミー氏が知らない書店名を挙げた。

「古書店というものに興味があった、と云うよりも、『田村書店』に通っていた頃のことを思い出したのだ」

エヴァンジェリスト氏は、眼を遣った特別展示室の天井の隅に、『田村書店』の看板を見ていた。

「なんだ、『田村書店』って?」
「田村正和がやっている本屋ではないぞ。田村亮でもない。ああ、田村亮といってもロンドンブーツではないぞ。田村正和の弟の俳優の方だ」
「どっちにしても、『田村書店』の経営者ではないんだろうに」
「勿論、阪妻』でもない」




「クダラン!」
「古書店だ。古本屋だ。学生時代、ボクがよく行っていた神田の古本屋だ。一階には、日本文学の初版本なんかが置いてあり、二階には、フランス文学やドイツ文学関係の本を取り扱っている結構、有名な古本屋だ。勿論、ボクは有名だから『田村書店』に行くようになったのではない。ボクが必要つとしているものがあったからだ」
「おお、君はやはり文学修士様であるなあ。その『田村書店』の二階にせっせと通っていたのだな」
「違う」
「は?」
「二階にも行くことはあったが、主に行ったのは、一階だ」
「君は初版本に興味があったのか?意外にミーハーなんだなあ」
「違う!モーリアックだ」
「だから、フランス文学関係の本がある二階なんだろ?」
「モーリアックの本は、ああ、原書のことだが、当時、古本でなくとも手に入った。翻訳本だ。大学に入ったところで、いきなりフランス語が読めるものではない。だが、モーリアックの翻訳書は、『テレーズ・デスケイルー』や『愛の砂漠』、『イエスの生涯』なんかは文庫本に入っていたが、当時、他の小説の翻訳はもう流通していなかった。だが、『田村書店』に行くと、絶版となっていた目黒書店の『モーリアック小説集』なんかが古本で手に入ることがあったんだ」
「ああ、モーリアックは、有名ではないものな。君から聞くまでは知らなかったからな」
「おお、嘆かわしい…」

エヴァンジェリスト氏は、両手で頭を抱えてみせた。如何にもな仕草である。


(続く)



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