(治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その89]の続き)
「おー、ここか」
というエヴァンジェリスト氏の言葉で、ビエール・トンミー氏は、自分が鎌倉文学館の玄関まで来ていたことに気付いた。『招鶴洞』に入る辺りから、あの時の『みさを』の言葉に心も視線も囚えられ、自分がどこを歩き、どこにいるのか……忘我の状態となっていたのだ。
「アタシの方こそ、ごめんなさい」
『招鶴洞』で、彼女の唇を奪おうとしたのは、自分の方なのに、それを拒否した『みさを』が謝ってきたのだ。
「こんな車寄せがあると、如何にも昔の建物って感じだなあ」
と、エヴァンジェリスト氏は、車寄せの天井や周囲を見回していたが、玄関の方に眼を遣ると、
「おや、何だこれは?」
と首を捻りながら、玄関横に掲げられた表札のようなものに顔を近付けた。
「何と書いてあるんだ?」
と、エヴァンジェリスト氏が呟いた。それは独り言のようでもあり、ビエール・トンミー氏に質問しているようでもあった。しかし、ビエール・トンミー氏の方は、
「(ブルルっ!)」
と頭を振った。表札のようなものに顔を近付けた友人の後頭部が、あろうことか、『みさを』の後頭部のように見えてしまったのだ。あの時、『みさを』も、エヴァンジェリスト氏と同様に、表札のようなものに顔を近付け、
「何と書いてあるのかしら?」
と云ったのだ。そして、拒否されたばかりであったのも拘らず、背後から抱きしめたい欲望に駆られたのだ。
「(んぐっ!)」
ビエール・トンミー氏は、今、眼の前にある後頭部が、友人のものであるのか、『みさを』のものであるのか、判別できなくなっていた。
「んん?『毛楽山荘』?」
と問う言葉も、エヴァンジェリスト氏のものであるのか、『みさを』のものであるのか、判別できなくなっていた。
「(ええい、構うものか!)」
と後頭部に体を寄せて行った時、
「君なら知ってるだろう、これ、何て書いてあるのか?」
と、振り向いた後頭部は、エヴァンジェリスト氏であった。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿