2020年8月20日木曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その90]






「おー、ここか」

というエヴァンジェリスト氏の言葉で、ビエール・トンミー氏は、自分が鎌倉文学館の玄関まで来ていたことに気付いた。『招鶴洞』に入る辺りから、あの時の『みさを』の言葉に心も視線も囚えられ、自分がどこを歩き、どこにいるのか……忘我の状態となっていたのだ。

「アタシの方こそ、ごめんなさい」

招鶴洞』で、彼女の唇を奪おうとしたのは、自分の方なのに、それを拒否した『みさを』が謝ってきたのだ。

「こんな車寄せがあると、如何にも昔の建物って感じだなあ」

と、エヴァンジェリスト氏は、車寄せの天井や周囲を見回していたが、玄関の方に眼を遣ると、

「おや、何だこれは?」

と首を捻りながら、玄関横に掲げられた表札のようなものに顔を近付けた。

「何と書いてあるんだ?」

と、エヴァンジェリスト氏が呟いた。それは独り言のようでもあり、ビエール・トンミー氏に質問しているようでもあった。しかし、ビエール・トンミー氏の方は、

「(ブルルっ!)」

と頭を振った。表札のようなものに顔を近付けた友人の後頭部が、あろうことか、『みさを』の後頭部のように見えてしまったのだ。あの時、『みさを』も、エヴァンジェリスト氏と同様に、表札のようなものに顔を近付け、

「何と書いてあるのかしら?」

と云ったのだ。そして、拒否されたばかりであったのも拘らず、背後から抱きしめたい欲望に駆られたのだ。

「(んぐっ!)」

ビエール・トンミー氏は、今、眼の前にある後頭部が、友人のものであるのか、『みさを』のものであるのか、判別できなくなっていた。

「んん?『毛楽山荘』?」

と問う言葉も、エヴァンジェリスト氏のものであるのか、『みさを』のものであるのか、判別できなくなっていた。

「(ええい、構うものか!)」

と後頭部に体を寄せて行った時、

「君なら知ってるだろう、これ、何て書いてあるのか?」

と、振り向いた後頭部は、エヴァンジェリスト氏であった。





(続く)



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