(治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その91]の続き)
「靴は脱ぐんだぞ」
鎌倉文学館の玄関で、ビエール・トンミー氏が、エヴァンジェリスト氏に注意した。そこは、土足厳禁であった。
「え?服を脱ぐの?いや~ん!」
と云うと、エヴァンジェリスト氏は、手で体の前を隠すようにして、腰をクネらせた。
「あは~ん?服を脱ぎたかったら脱げ」
ビエール・トンミー氏は、独りオチャラケる友人を無視し、靴を脱ぐと、下駄箱に入れ、赤いじゅうたんが敷かれた階段を上って行った。
「おお、なんだか文学の香りがするなあ」
ホールを通り、常設展示室に入ると、声を潜め、ビエール・トンミー氏が呟いた。
「おい、それはどんな香りなんだ?」
他にも幾人か来館者がおり、さすがのエヴァンジェリスト氏も小声で訊いた。
「君も文学者だろうに…」
あらためて呆れたといった様子で、ビエール・トンミー氏は、首を左右に振った。
「ああ、やはりボクには文学は遠い存在だ。ボクは、文学の道を棄てたんだ…」
展示された鎌倉ゆかりの文士たちの生原稿や手紙等を興味なさげに見ながら、ため息をつくようにエヴァンジェリスト氏が云う。
「いや、君の修士論文は、なかなかのものだったぞ」
ビエール・トンミー氏が、真顔で友人を褒める。読んだのは、厳密には修士論文ではなく、その草稿であったが(友人が修士論文を書いた当時は、まだコピー機は普及しておらず、論文自体は、大学の図書館に所蔵されているものしかないのだ)、普段はお下劣としか思えない友人の心の深層を見たように思ったのだ。
(続く)
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