2022年10月13日木曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その294]

 


それにしても、トンミーくん、ホンマ凄いのお」


と、『ボッキ』少年は、ビエール少年の方に火を向け、あらためて称賛の言葉を吐いた。


1967年4月のある土曜日、広島市立牛田中学を出た1年X組のビエール少年と『ボッキ』少年が、『ハナタバ』少年と、後で『秘密の入口』で会おう、と別れたところであった。いつからか、ビエール少年と『ボッキ』少年の背後にいた少女『トシエ』が、『秘密』という言葉を捉え、何の『秘密』か追求していたところ、遠りがかった赤い髪の若い外国人女性が、『バド』と呼ばれているビエール少年に対して、アメリカ人なのかと訊き、ビエール少年と英語での会話を交わし、最後にハグをして立ち去って行ったのであった。


「え?何が?」

「どうして、ああように外人と英語で話せるんねえ?」

「何、云いよるん!『バド』が英語話せるん、当り前じゃないね!」


と、少女『トシエ』は、『ボッキ』少年の質問に腹を立てたが、ビエール少年は、『ボッキ』少年に対して、頭を掻きながら、答えるのであった。


「いや、大して話してなんかいないんだけど…」


英語をまだ知らない『ボッキ』少年と少女『トシエ』には流暢な英語としか聞こえなかったのであろうが、ビエール少年は、確かに、『アイ・ム・ナット・「バド」』等と簡単な英語しか話してはいなかった、


「『田崎』先生ので勉強してるから」

「『タザキ』先生?...あ!」

「牛田中にそうような英語の先生おった?」

「NHKじゃ!」

「ウチ、NHK好かんけえ。ウチ、4チャンネルか12チャンネル見たいのに、お父ちゃん、お母ちゃんいうたら、3チャンネルばっかりじゃけえ」


当時(1967年である)、広島市では、4チャンネルは『中国放送』(その年の4月1日に『ラジオ中国』から社名変更したばかりであった)、12チャンネルは『広島テレビ』、そして、『NHK』は、3チャンネルであった。


「日曜の朝は、お父ちゃん、4チャンネルにするけど、見るんは、『ジジイ放談』じゃけえ」


と、少女『トシエ』は、当時の子どもの多くが抱いていた不満を口にしたが(『ジジイ放談』は勿論、政治討論のテレビ番組『時事放談』のことである)、『ボッキ』少年が、少女『トシエ』にとって思い掛けないことを云い出した。




「お兄ちゃんも見とるけえ」



(続く)




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