「広島のお好み焼きができたのは、戦後らしいんだよ」
と、ビエール少年は、ムキになっている『ボッキ』少年をそれ以上、興奮させることを警戒しながらも、広島のお好み焼きの生い立ちを説明し始めた。
1967年4月のある土曜日、広島市立牛田中学を出た1年X組のビエール少年と『ボッキ』少年が、『ハナタバ』少年と、後で『秘密の入口』で会おう、と別れたところであった。いつからか、ビエール少年と『ボッキ』少年の背後にいた少女『トシエ』が、『秘密』という言葉を捉え、何の『秘密』か追求していたところ、遠りがかった赤い髪の若い外国人女性が、『バド』と呼ばれているビエール少年に対して、アメリカ人なのかと訊き、ビエール少年と英語での会話を交わしたのを見て、『ボッキ』少年と少女『トシエ』が、ビエール少年の英語力に感嘆していたことから、ビエール少年が見ているというNHK教育テレビの『テレビ英語会話』話題へとなっていた。そして、更に、少女『トシエ』が、奥さんが英語喋れない訳にはいかないから、自分も『テレビ英語会話』見るようにすると云い出し、少女の妄想は、ビエール少年の妻となった自分が、『整体拝受』の際の『ホスチア』だって作るかもしれない、とまで拡がっていっていた。しかし、『ボッキ』少年が、自分はキリスト教の知識のない理由として、お経の一節、『ナ~ムア~ミダ~ンブー』を唱えたことから、広島には『浄土真宗』の家が多いらしい、とビエール少年が博識ぶりを見せ、『ボッキ』少年も『東本願寺』、『西本願寺』を持ち出しはしたものの、『浄土真宗』が『東』と『西』とに別れた事情を知らず、ビーエル少年が、元は一つの『本願寺』だった『石山本願寺』を信長が攻撃したことが原因と説明しだした。そして、その『石山本願寺』信長がなかなか攻め切れなかったのは、『毛利輝元』が『石山本願寺』に食料とか武器なんかを提供して味方したからだとも説明をしたのだ。そこで、少女『トシエ』が、『石山本願寺』にお好み焼きも差し入れしたのだろうか、と云い出したことから、『お好み焼き』論争になってきていたのだ。
「何、云いよるんならあ!お好み焼きは、ずっとあるけえ」
『ボッキ』少年の興奮はまだ続いていた。
「うん、お好み焼き自体は、『一銭洋食』っていって、昔からあったみたいなんだけど、今の広島のお好み焼きみたいになったのは、戦後10年くらいしてから、つもり、ボクたちが生れた頃らしいんだよ。うん、だから、『ボッキ』くんが生れた時から、今の広島のお好み焼きはあったんだよ」
お好み焼きの知識は、広島に来てから、父親に連れられ、家族で、今でいう『広島風お好み焼き』を食べた時に、父親から教えられたのであった。
その際に、お好み焼きそのものは、千利休が始めた「麩(ふ)の焼き」という茶菓子がルーツとも云われていることや、その「麩(ふ)の焼き」とは、小麦粉を薄く焼いた生地に、味噌等を塗ったものだとも教えられたが、その時、ビエール少年は、広島のお好み焼き自体の生い立ちを説明するに止めた。
「おお、ワシが生れた時から、お好み焼きはあったけえ」
『ボッキ』少年も、自分の認識がある意味、肯定されたことで落ち着きを取り戻してきた。
「だけど、『毛利輝元』の時代にはまだ、広島のお好み焼きはなかったんだよ」
「なんねえ、『毛利輝元』が、『石山』さんにお好み焼き、差し入れてあげたけえ、『石山』さんは頑張って、『信長』に負けんかったんかあ、思うたんよ」
「お好み焼きはなかったけど、『石山本願寺』は『信長』に負けなかったんだ。でも、戦いが長引いて、『信長』は、正親(おかちまち)天皇に仲裁を頼んで、『石山本願寺』に和睦を求めたんだって」
「『ワボク』?なんか和菓子なん?」
「いや、『和睦』って…」
「ウチ、和菓子なら、『福屋饅頭』もエエけど」
「あ、『小福饅頭』だね」
「差し入れするんなら、やっぱり『もみじ饅頭』がエエじゃろう」
「いや、『和睦』って…」
「ああ、ほうなんねえ!『毛利輝元』が、『石山』さんに差し入れしたんは、『もみじ饅頭』だったんだじゃね!?広島の名物じゃけえ、『信長』も欲しゅうなったんじゃろうねえ」
少女『トシエ』は、得心の笑顔を見せた。
(続く)
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