2020年1月28日火曜日

ハブテン少年[その163]




少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・アニメ『ムーミン』は、面白いギャグもないし、悪者をやっつけてスカっとすることもない、とハブテた。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





「ボーン!」

居間のソファに座り、ため息を漏らし、俯いていたエヴァンジェリスト少年が、その音に顔を上げた。

「ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!」

子ども部屋の柱時計が5時を打った。



「(よし!)」

文庫本の『おバカさん』をテーブルに置き、腰を上げた。

「(そろそろかな?)」

応接間から、垣根と門越しに道路を見る。

「(まだか?いや、もう通ったのか?)」

帰宅する『パルファン』子さんの姿を待つが、彼女はなかなかそこを通らない。しかし、網膜には常時、『パルファン』子さんの像が映っている。

「んぐっ!」

そして、更に、そこを(自宅前を)通るはずがないであろうあの『肉感的な』少女の姿も、バレーをする太ももも露わなブルマ姿で、少年の股間の網膜には映っている。

「んぐっ!んぐっ!」

その時、遠藤周作の殺し屋『おバカさん』の『遠藤』の孤独も、フランソワ・モーリアックの『蝮の絡み合い』のルイの孤独も、そして、自らの孤独も、少年の脳裏からは消えていた。

いや、彼らの孤独は消えた訳ではない。消えるものではない。しかし……

「んぐっ!んぐっ!んぐっ!」

エヴァンジェリスト少年は、応接間の窓に鼻の頭を擦り付け、一心に垣根と門越しに道路を見ている。

「Monsieur Evangelist!」

テーブルに置かれた文庫本の表紙の『おバカさん』である『ガストン・ボナパルト』が、そう叫んだ。しかし……


(続く)



2020年1月27日月曜日

ハブテン少年[その162]




少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・アニメ『タイガーマスク』の主人公タイガーマスクは凄いが、実際にはこんなレスラーはいない、とハブテた(将来、アニメのタイガーマスクを凌駕するような本物の『ターガーマスク』(佐山聡)が登場するとは、その時、まだ知らなかった)。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





「(殺し屋『遠藤』か)」

『おバカさん』である『ガストン・ボナパルト』が、エヴァンジェリスト少年を捉えた。しかし、それ以上に、『ガストン・ボナパルト』が付きまとって離れない殺し屋『遠藤』のが、エヴァンジェリスト少年の心に巣くった。



「(自分を投影したのだな)」

殺し屋『遠藤』が、『おバカさん』の作者である遠藤周作の分身であることを理解することは、名前からして容易であった。

「(自身の分身に自らの名前を与えていることが、巫山戯ているようで面白かった訳ではない)」

殺し屋『遠藤』は、罪の人である。しかし、己の醜さを知っている。だから、孤独である。そのことに、エヴァンジェリスト少年は、堪らなくなった。

「(どうしてなんだ!?)」

何故、殺し屋『遠藤』という存在に堪らない気持ちになるのか、分らなかった。

「(……)」

少年はまだその時、気付かなかった。自らの孤独が、殺し屋『遠藤』の孤独に共感したのだということを。そして、遠藤周作が、フランスのカトリック作家フランソワ・モーリアックに影響を受けていることも、知る由がなかった。

更には、この『おバカさん』を切っ掛けに、『遠藤周作』を読み進めることにより、『フランソワ・モーリアック』を読むようになり、『フランソワ・モーリアック』をもっと読む為に、大学でフランス文学を専攻し、学部の卒業論文でも、修士論文でも『François MAURIAC論』を書くようになることを、まだ知らなかった。

『君は嘘をついていなかったんだ、この嘘つきめが!』

と妻について思う、ルイの言葉を幾度も読み返すようになることを、少年はまだその時、知らなかった。ルイは、フランソワ・モーリアックの『蝮の絡み合い』(Le nœud de vipères)の主人公だ。

『なんでもないの。あなたといるから』

と結婚前に妻が流した涙を愛の涙と勘違いしていたのだと、ルイは、後に思う。そのルイの孤独と同じものを、『おバカさん』を読んだ時に、感じとっていたことを、そう、殺し屋『遠藤』に感じとっていたことを少年はまだ、知らなかった。

ルイは、妻について、

『ああそうだ、君は、僕といたから泣いたのだ。僕といたからだったんだ。あの男じゃなくてな……』

と思う。その孤独の深さと同じ孤独を殺し屋『遠藤』に感じ、自らの孤独がそれに共鳴したことを、少年はまだその時、知らなかった。

「(殺し屋『遠藤』は、『ハブテテ』いる)」

確かにそうだ。兄が戦犯で死刑になったのに、本当に処刑されるべき連中が生きているのだ。

「(そりゃ、『ハブテル』さ。ボクだって…)」

眦をあげる母の顔が、両の口の端を横にぐいと引く父の顔が、したり顔に笑みを交わす大人たちの顔が眼前に浮かび、渦巻き、その渦の中で頭を抱えて蹲る自身の姿に目が回り始めた。

「ああ……」

それまで読んだ遠藤周作の小説とは、趣を異にするユーモア小説、中間小説と思って読み始めた『おバカさん』が、そんな小説のジャンルなんぞどうでもいい程にエヴァンジェリスト少年に、少年らしからぬ深いため息をつかせた。

その時………


(続く)




2020年1月26日日曜日

ハブテン少年[その161]




少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・アニメ『タイガーマスク』の主人公タイガーマスクは強いが、実際にはアントニオ猪木の方が強い、とハブテた。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





「(巫山戯てるなあ)」

と思いながらも、顔は怒ってはいない。むしろ、

「(ガストン・ボナパルトかあ)」

皇帝ナポレオンの末裔という嘘か誠かわからぬ設定を愉しんでいるようだ。『ガストン・ボナパルト』は、しかし、ナポレオンとは似ても似つかぬ、風采も上がらぬ、弱虫な『おバカさん』だ。それも愉しい。

「(これ、本当に遠藤周作なのか?)」

『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)を卒業し、高校入学までの春休みを過ごす少年が読んでいる文庫本のタイトルは、『おバカさん』であった。遠藤周作の小説である。

「(これが、『白い人・黄色人』や『海と毒薬』の遠藤周作なのか?)」

エヴァンジェリスト少年は、暗くて詰まらない、そして、内容がよく理解できない、それまで読んだ遠藤周作の小説と、今手にしている小説とのギャップに驚き、戸惑っていた。でも、戸惑いつつも思う。

「(こっちの方が面白い。こっちなら面白い)」

エヴァンジェリスト少年は、まだその時、『白い人・黄色人』や『海と毒薬』も、『おバカさん』も、いずれも『遠藤周作』的世界のものであることを知らなかった。

「(キリストなのかあ)」

キリスト教のことはよく知らなかったが、『ガストン・ボナパルト』の化身であろうと思えた。遠藤周作が、カトリック作家であることは知っていた。

「(弱虫で、『力』はないけど)」

宗教文学は、遠藤周作の作品以外、読んだことはなかったが、『おバカさん』に宗教臭は感じない。ましてや、『ガストン・ボナパルト』は、所謂、『神』的な存在とは程遠い存在である。しかし、『ガストン・ボナパルト』を、遠藤周作は、キリストとしていることは感じ取った。

「(『おバカさん』なキリストかあ)」


弱虫で、『力』のない『おバカさん』が、遠藤周作にとってのキリストであることが、『ハブテル』少年の心を捉えた。

「(普通ではない……)」

普通ではないからだ。『ガストン・ボナパルト』を、ありきたりの、常識的な、世間的な、皆が思うような、そんな存在としていないことが、『ハブテル』少年の心のありようと同期したのだ。


(続く)


2020年1月25日土曜日

ハブテン少年[その160]




少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・アニメ『タイガーマスク』は面白くなくはないが、本当のプロレスの方が面白い、とハブテた。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





(結局、あの後、何も云ってくれなかったわ)」

1970年の『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の卒業式で、下級生たちに拍手で送られながら体育館を出て行く3年生の中に、エヴァンジェリスト少年を見つけた少女は、そう思っていたかもしれない。

「(でも、アタシがいけないのね)」

少女は、自らを責めていたかもしれない。

「(『ボクと付き合ってくれないか?!』って云われた時、アタシは心の中ですぐに返事したの、『はい!』って)」

廃線となった宇品線を超えた旭町の狭隘な道で向き合った情景を思い浮かべていたかもしれない。

「(でも、口では、『….考えます』と云ってしまったんだもの!)」

少女は、唇を噛んでいたように見えたかもしれない。


そして、もう一人の少女は、

「(アタシ、知ってたわ)」

やはりエヴァンジェリスト少年を見つけ、そう思っていたかもしれない。

「(バレーコートの横を通る時、見ていたでしょ、アタシの太ももを)」

と思いながら、あの『肉感的な』少女は、自らの太ももに電気のようなものが走るのを感じたかもしれない。

「(お尻だって、横目で見ていての、知ってるわ)」

と、誰かに見られているかのように、後ろ手でお尻を隠す仕草をしたかもしれない。

「(制服の胸が揺れるのも見ていたでしょ、窓越しに)」

音楽室の出入口前のスペースで、他の男子生徒と何か体を絡めるようなことをしながら、顔だけは、窓の向こうの本校舎の教室の自分を凝視める少年のことを思い出していたかもしれない。

「(ううん、嫌じゃなかったの。もっと、もっと見ていて欲しかったの)」

しかし………

「バチバチバチバチバチバチ!」

という拍手に送られ、体育館を出たエヴァンジェリスト少年の『ミドリチュー』生活は、こうして幕を下ろした。


(続く)





2020年1月24日金曜日

ハブテン少年[その159]




『『少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・アニメ『ムーミン』も、なんだかほのぼのとしていてつまらない、とハブテた。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





「いやあ、ちょっといいですかあ!」

まくしたてる上司の声よりも大きな声で、エヴァンジェリスト少年が、いや、エヴァンジェリスト氏が、いやいや、エヴァンジェリスト少年が叫んだ。

「そんなの全然、論理的じゃあないでしょう!」

叫ばれた上司だけではなく、会議室にいる全員が、怯んだ。

「(何故、ボクがこんなことを云わないといけないんだ!)」

エヴァンジェリスト少年は、定年となり、再雇用で会社に残っていた。再雇用満了までも遠くはなかった。最後くらい、穏やかなサラリーマン生活を送りたかった。


「(でも、ボクは抑えられない)」

エヴァンジェリスト少年は、彼が少年でなくなっても、65歳が近くなっても『少年』であった。

「(みんな、ぼくより若いのに、何故、『若く』ないのだろう?)」

しかし………

「バチバチバチバチバチバチ!」

と、1970年の『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の卒業式で、下級生たちに拍手で送られながら、体育館を出て行く時、エヴァンジェリスト少年は、まだ知らなかった。

「バチバチバチバチバチバチ!」

『大人』とは、大人だけのことではなく、『青春(若さ)』は、若者だけの特権だけではないことをまだ知らないのであった。

「♬ああ、むーなしく、ゆたーかな、オトナーに、なーりたくない♫」

拍手の音は聞こえず、エヴァンジェリスト少年の耳にだけは、森山良子の歌声(『山本直純』作曲・『倉本聰』作詞)が響いていた。


(続く)



2020年1月23日木曜日

ハブテン少年[その158]




『少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・アニメ『サザエさん』は、なんだかほのぼのとしていてつまらない、とハブテた。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





「(君たちは、どうして抗わないのだ?!)」

60歳を過ぎたエヴァンジェリスト少年は、いや、エヴァンジェリスト氏は、いやいや、エヴァンジェリスト少年は、会議室で、無茶をまくしたてる上司を前にただ俯く会社の後輩たちを見て思う。

「(君たちは、今、何歳なのだ?)」

エヴァンジェリスト少年の部署の後輩たちは、彼よりも20歳程若い。もっと若く30歳代、20歳代の者もいる。

「(いや、君たちだけではないか……)」

自分の世代の者たちのことを思い浮かべる。自衛隊も、当然のようにその存在を認め、貧相な老人の子どもやその一族を有り難がる同世代の者たちのことを恥じる。

「(ミスター・シューベルトは違ったが)」

その2-3年前、通勤途中に心筋梗塞で急逝した先輩だけは違った。上司であれ部下であれ、先輩であれ後輩であれ、間違っていると思っていることに関しては、口角に泡を立てて詰問した。



「(子どもだった。あの人は、『大人』になれなかった。いや、『大人』になることを拒否した人だった)」

しかし、だから、ミスター・シューベルトは、会社の主流から外された。

「(でも、ボクは、あの人を尊敬する)」

ミスター・シューベルトは、主流から外される前に開発した商品で業界に『革新』をもたらした。主流から外された後も、自身のできる限られた範囲の中で他にはない商品を開発し続けた。だが、社内の地位は、若手と変わらないところまで落とされた。

「(『結果』を残したからではない。己を曲げない人だったからだ)」

『倉本聰』脚本の『わが青春のとき』で、主人公の『武川和人』と自分の娘とを別れさせようとする『加島』は、己を曲げない『武川和人』に対して、

「家内や倅は、あの時、あなたを見捨てたようです」

としながらも、

「私は正直いってあの時から、-あなたにある種の好意を持ってしまった」

と云ったことを思い出す。

「(だが君たちは……)」

俯いたままの後輩たちを睨むエヴァンジェリスト少年の頭の中に、

「♬でもぼーくは、かたくなーに、おさなさーをむねにだきー♫」

1970年の『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の卒業式の時のように、森山良子の歌声(『山本直純』作曲・『倉本聰』作詞)が響いていた。


(続く)



2020年1月22日水曜日

ハブテン少年[その157]




『少年』は、その前年(1969年)に放映が始まったテレビ・ドラマ『水戸黄門』のスポンサーは『ナショナル』(松下電器産業)だが、『ナショナル』といえば『水戸黄門』ではなく『ナショナルキッド』だろうに、とハブテた。

ハブテルと、

「あんたあ、ハブテンさんな」

と母親に叱られると思ったが、ハブテた。


************************





「(野兎病(やとびょう)かあ…)」

大学の病理研究室の『武川和人』は、『野兎病』研究の為に総てを犠牲にしようとしていた。だから、教授に、

「大学の研究室というところは、みんなが一致団結して、一つの研究にとりくむところだ」

と、自分の研究(『野兎病』研究)を止めるように云われても、

「自分の研究を放棄するようなことは-今のぼくには考えられません」

と、『倉本聰』脚本のテレビ・ドラマ『わが青春のとき』の主人公である『武川和人』は、己を曲げることをしない。



「(大人は汚い)」

長いものに巻かれる『大人』、本来はおかしいと思われることでも既成事実化してしまうと、揉めることは避け、それでいいのではないか、と疑問を封じてしまう『大人』、そんな、

「♬オトナーに、なーりたくない♫」

という森山良子の歌(『山本直純』作曲・『倉本聰』作詞)のような、エヴァンジェリスト少年が生来持っていた怒りを、前年(1969年)の夏、『颱風とざくろ』で覚醒させた『倉本聰』は、その年(1970年)の2月に始まった『わが青春のとき』で、抑えようがないものにまでしていったのだ。

『わが青春のとき』には、『颱風とざくろ』と同じように、原作があった。しかし、『颱風とざくろ』のような『石坂洋次郎』の原作ではなく、スコットランドの小説家『A.J.クローニン』の『青春の生き方」を原作としていたものの、『颱風とざくろ』と同じように、その内容は、原作からは大きく離れ、『倉本聰』のオリジナルといった方が正しいのものであった。

「(ボクが大人になる頃には……)」

と、『ミドリチュー』(広島市立翠町中学)の卒業式が行われている体育館のステージ端に置かれた『日の丸』を見ながら、エヴァンジェリスト少年は、自らの唇を噛んだ。

「(いや、ボクたちが大人になる頃には!)」

しかし、その思いが、裏切られることになることを、その時、少年はまだ知らなかった。

『ボクたち』の多くが、『むーなしく、ゆたーかな、オトナーに』なってしまうことを。


(続く)