2020年8月7日金曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その80]






「文学館は、君に相応しいんだ。君自身、そのことにまだ気付いてはいないんだろうが」

江ノ電『長谷』駅を出て、狭い歩道を北上し、『長谷観音』の交差点を右折した歩道に立ち止まり、ビエール・トンミー氏は、エヴァンジェリスト氏に対し、謎めいた云い方をした。

「え?ボクがまだ気付いていない?」

と、エヴァンジェリスト氏が、可愛い小鳥のように小首を傾げたが、その様子を気持ち悪く思ったビエール・トンミー氏は、進行方向に向き直り、また歩き始めた。

「いいから、まあ、付いてこい」

その道も決して歩道は広くなく、エヴァンジェリスト氏は、ビエール・トンミー氏に並んで、というよりも、彼の少し斜め後ろを歩いた。ビエール・トンミー氏は、何故か、機嫌が良さそではない。

「(『海岸通り』というのか…)」

途中のバス停の標識で、その通りの名前を知ったが、

「(海岸はここにはないぞ。多分、もっと向こうの方だ。なのに、『海岸通り』とはなあ)」

と思ったが、そのことを友人に訊ける雰囲気ではなかった。

「(この道も、一緒に歩いた…『みさを』と)」

ビエール・トンミー氏は、友人の存在を忘れた訳ではなかったが、右手に『みさを』の手の感触を思い出し、無言でいた。




「(指を絡めてきた…んぐっ!)」

一瞬、ビエール・トンミー氏は、歩みを止めた。

「ん?どうした?」

無邪気なエヴァンジェリスト氏が、顔を覗き込んできた。

「いや、なんでもない。あ、そうだ。次の交差点を左折するぞ」

ビエール・トンミー氏は、数メートル先の交差点を指差した。


(続く)



2020年8月6日木曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その79]






「え?鎌倉文学館?」

『鎌倉文学館』は、全く想定いなかった場所のようで、エヴァンジェリスト氏は、立ち止まり、呆けたように口を開けた。江ノ電『長谷』駅を出て、狭い歩道を北上し、『長谷観音』の交差点を右折した歩道である。

「そうだ。鎌倉文学館だ」

一方、ビエール・トンミー氏は、現役ビジネスマン時代を取り戻したかのようにキッパリと友人に告げた。

「鎌倉に文学館があったのかあ…」
「君は、文学部出身なのに、それもフランス文学修士なのに知らなかったのか?」
「うーむ……鎌倉に限らず、ボクは文学館なるものに行ったことがない。いや、正確に云うと、文学館には興味はない。それ以前に、文学に興味はない。ボクは、遠藤周作の作品が好きで、その遠藤周作に影響を与えたフランソワ・モーリアック(François MAURIAC)に興味があって、文学部に入っただけなんだ」
「呆れた奴だなあ。文学が好きで大学院に行こうとしても合格しなかった者がいるだろうに、文学に興味がないと断言する男が、文学部に入るだけならまだしも、大学院に行ったなんてなあ。行けなかった連中に申し訳ないと思わんのか?」
「では訊くが、君は、商学部に興味があって天下のハンカチ大学の商学部に入ったのか?」
「うっ……いやまあ、それは……」
「君は、ハンカチ大学商学部で簿記の単位を取ったのか?簿記が『不可』で代替科目として会計学を取りはしなかったか?しかも、その会計学が何か、全く理解していなかった、なんてことはないだろうな」




「おのれえ、何故、そのことを….むっ」
「要は、君は就職に有利だろうというだけでハンカチ大学の商学部に入ったのだろうに」
「まあ、そうだが。いや、だがな、フランス語経済学は、ちゃんと『優』を取ったんだぞ」
「またその話か。誰のおかげで、その『優』が取れたんだ?」
「ああ、もういい。では、君は、鎌倉文学館には行かないのか?」
「いや、行かないとは云ってない。ただ、ボクに相応しいかなあ、とは思うが」
「ふん、君は何も分っていない」

ビエール・トンミー氏は、若かりし日の美青年ぶりを残す高い鼻をツンと上に向けた。


(続く)



2020年8月5日水曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その78]






「君にもっと相応しい所に行く、と云っただろ」

と、友人のエヴァンジェリスト氏に云いながら、ビエール・トンミー氏は、江ノ電『長谷』駅を出て北上する狭い歩道を進み、『長谷観音前』の交差点まで来た。

「こっちへ行くと、長谷観音、つまり、長谷寺だな」

エヴァンジェリスト氏は、『草もち』という旗の立つ和菓子屋『恵比寿屋』の前で、左手方面を差しながら行った。

「だからあ、長谷寺には行かん、と行っただろう」

ビエール・トンミー氏は、やや苛立っていた。しかし、その苛立ちに気付かないのか、気付きながらも気にしていないのか、エヴァンジェリスト氏が、『草もち』という旗を見ながら云った。

「ここか?和菓子は好きだが、『草もち』は食べんぞ。『草もち』というものが理解できん」
「はああ?じゃ、食べなきゃいいだろう」
「何故、『草』を食べんるんだろう?」




「『草』と云ったって、蓬だろ」
「でも、『草』なんだろ。『草』を食べて、何がいいんだろう?まあ、饅頭やどら焼きは好きだから、この店で構わんが。なかなか味わいのあるような店だしな」
「ここではない。いいから、こっちへ行くぞ」

と、ビエール・トンミー氏は、横断歩道を渡り、渡ったところで、道を右折し、歩を進めた。

「おいおい、どこに行くんだ?」

エヴァンジェリスト氏は、慌てて友人を追った。

「鎌倉文学館だ」

振り向いたビエール・トンミー氏が、ついに行き先を告げた。


(続く)



2020年8月4日火曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その77]






「熊野古道も嫌なのか。坐禅も嫌、熊野古道も嫌、かあ」

江ノ電『長谷』駅を出て北上する狭い歩道を歩きながら、ビエール・トンミー氏は、項垂れながらも憮然とした表情のエヴァンジェリスト氏に向け、呆れたように云った。

「君は、病気を治すつもりがないのか?」

と友人に責められたエヴァンジェリスト氏は、駄々っ子のように口を尖らせ、反論した。

「だってええ、熊野古道って、東京から行くのは、かなり大変だと思うぞ」
「そりゃまあ、遠いだろうな」
「どうやって行くのか、行く気がないから、ちゃんと調べてはいないが、南紀白浜空港まで飛んでからバスで入るのか、名古屋から近鉄に乗って、さらにバスで入るんじゃないかと思うが、どっちにしても大変だ。それに、そこから更に歩くんだろう?とんでもないことだ」
「さすが君も、『プロの旅人』君と同様、『プロの旅人』だなあ。だが、まさに行くのが大変な地にあるからこそ、霊験あらたかなのではないか」
「ボクは『霊』というものの存在を認めん。幽霊には会ったことがない。本当にいるなら、出てきて欲しい。そして訊くんだ、『何を考えて生きているのか?』とな」




「いや、幽霊は死んでいるから、生きてはいないだろう」
「そうかあ?人が死んでなるのが幽霊なんだろ?だから幽霊自体は、死んではいないんじゃないのか?ということはだ、つまり、幽霊は、生きている、ということになると思うんだがなあ」
「ああ、また面倒臭いことを云い出したなあ。もういい!さあ行くぞ」
「だから、どこに行くんだ?『長谷寺』でも『華正樓』でもないようだし」


(続く)



2020年8月3日月曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その76]






「長谷寺には行かん」

と云って、エヴァンジェリスト氏に背を向け、ビエール・トンミー氏は、江ノ電『長谷』駅を出て北上する狭い歩道を、また歩き始めた。

「おい、どこに行くんだ?」

エヴァンジェリスト氏は、慌てて友人を追った。

「君にもっと相応しい所に行くんだ」
「あゝ、『華正樓』だな。さすが、ボクの友人だ」
「え、え?『火星(カセイ)』?何を寝ボケているんだ」
「『カセイ』ではない。『カセイロウ』だ。中華料理店だ」
「さっき、『Eggs'n Things』で満腹になったばかりだろうが」
「いや、そういう問題ではないだろう。裕さんだよ。惚けるなよ、分ってるんだろ」
「ええい、面倒臭い奴だなあ。何を勘違いしているんだ」
「石原裕次郎御用達の中華料理店だ。その『華正樓』に連れて行ってくれるのではないのか?確か、『華正樓』は『長谷』にあったはずだが」
「石原裕次郎だとか、石原プロのことが心配だ、とか云いながら、結局は、石原プロに入らないくせに」
「むむう……あと三年は、今の会社で働かないといけないからなあ」

当時(2016年)、エヴァンジェリスト氏はまだ、石原プロ入りが噂されていた。

「おいおい、まだ仕事のことを考えているのか!君は今日、どうしてここに来ているんだ?」
「うん…治療だ。治療の為だ」
「そうだ。君は、『仕事依存症』だ。仕事のことを頭から消すんだ」
「ああ」
「産業医から、歩くように云われたんだろう?」
「熊野古道でも歩けば、と云われた」




「おお、熊野古道か」
「熊野古道は嫌だ」

二人は、狭い歩道を並んで歩いていた。


(続く)



2020年8月2日日曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その75]






「はあ?分らんのんか?」

エヴァンジェリスト氏が、ビエール・トンミー氏に対し、批難するような云い方をしたが、江ノ電『長谷』駅を出て北上する狭い歩道で立ち止まったまま話し込んでいる二人を、他の通行人たちは、批判の眼を向けながら、躱して行く。

「外国人と云えば、坐禅が好きだろう、ということか。それはちょっと単純過ぎはしないか?外国人が皆、坐禅好きとは限らんだろう」

プライドから批難なるものを受け容れ難く、ビエール・トンミー氏が、理屈で返した。

「おっ。実は、ボクもそう思った。そのドイツ人本人が希望したのか、単純過ぎる実家の連中の勝手な判断なのか、兎に角、ドイツ人は、坐禅をする羽目になったんだ」

神妙な面持ちとなったエヴァンジェリスト氏は、広島弁を止めた。

「それが、元宇品の寺ということか」
「ああ、長兄が、元宇品の観音寺の住職と知り合いだったんだ」
「で、ドイツ人の通訳たる君も、坐禅に付き合ったんだな」
「ああ、苦しかったあ…脚が痛くて痛くて」
「だから、坐禅はもうゴメンなのか」
「ボクは今はもう、正座だってもう出来ない。女房の父親の葬式の時だって、ボク一人、胡座をかいていた」
「うーむ。それはいかん。礼を失しているぞ」
「ふん!君に云われたくないな。君だって、優雅な老後生活に胡座をかいているだろうに」
「要は、君は坐禅を組むのは嫌なんだな」
「ああ、産業医の勧めでも、嫌なものは嫌だ」
「まあ、坐禅を組んだところで、君の頭の中はどうせエロい妄想で一杯になるだろうしな」
「君だって、西洋美術史の研究と称し、胡座をかいて裸体画ばかり見て、涎を垂らしていることは分ってるんだ。なのに、『花の寺』とかいう浄らかそうな長谷寺に行こうとは、烏滸がましいぞ」




「はああ?誰が、長谷寺に行くと云った?」
「ええ?」

口を開けたエヴァンジェリスト氏は、美男も台無しのマヌケ顔になっていた。


(続く)


2020年8月1日土曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その74]






「ある日、親から電話があり、土日で広島に帰って来い、と云ってきたんだ」

江ノ電『長谷』駅を出て北上する狭い歩道で立ち止まり、エヴァンジェリスト氏は、自らの坐禅体験を語り始めた。

「何故、土日なんだ。いや、そもそも何で、帰って来い、なんだ?」

ビエール・トンミー氏は、友人の座禅体験に興味はなかったが、一応、訊いた。

「ドイツ人を、広島の実家にホームステイさせることにしたというんだ」
「ええ?君のお父さんやお母さんは、ドイツ語ができたのか?」
「いや、広島弁しかできんかった」

エヴァンジェリスト氏の言葉が、いきなり広島弁になった。

「母親は、神戸で生まれて、戦災で焼けだされた二十歳まで神戸で育ったんじゃけど、関西弁はもう喋れなくなっとるはずじゃ。母親の関西弁は聞いたことがないけえ」
「わざとらしい広島弁は止めろ。それに、広島弁も関西弁もどうでもいい。要するに、お父さんもお母さんもドイツ語はできなかったんだな」
「いや、それだけじゃないでえ。同居しとった長男夫婦も、広島弁しかできん」
「ああ、92歳で要介護のお父さんを見捨て、独り残して家を出て行ったお兄さんだな」




「他人の家の事情をよう知っとるのお」
「君が自慢げに話したんだろうが。普通、自慢げに話す内容ではないのに」
「ただ出て行ったんじゃないで。弟たちに、後はお前らで面倒見ろとも何とも連絡もなかったんじゃけえ」
「そのことも何度も聞いた。兄さんにも言い分はあるだろうが。まあ、要するに、その頃、君の実家では、誰もドイツ語は話せなかったんだな。英語もか?」
「広島弁しか話せん云うたじゃろうが」
「ホームステイで来るドイツ人は、英語は話せたのか?君だって、フランス語だって『ディクテ』はできないし、ドイツ語は全くダメだろ。だが、英語はまあ、できるだろうから、君に帰って来い、となったんだな」




「まあ、そういうことだ」
「しかし、どうして、君の実家にドイツ人がホームステイで来ることになったんだ?」
「母親が、教育関係の仕事しとったけえよ」
「ああ…だが、ドイツ人のホームステイが、坐禅と何の関係があるんだ?」


(続く)