2020年8月31日月曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その101]






「『博識大先生』の君が知らんとは」

鎌倉文学館の特別展示室で、エヴァンジェリスト氏は、友人のビエール・トンミー氏の言葉に頭を抱えた両手の隙間からのぞかせた顔を左右に振った。

「モーリアックはなあ、フランソワ・モーリアック(François MAURIAC)の方だが、ノーベル賞作家なんだぞ」

フランソワ・モーリアックの息子のクロード・モーリアック(Claude MAURIAC)も作家なので、そういう云い方をしたのであったが、そんな背景をビエール・トンミー氏は知る由もなかった。

「おお、そうであったか。であれば、尚更、君がノーベル賞を受賞するのも必然だな。君は、モーリアックにつながっているんだものな。そうだ、モーリアックの弟子だ、いや、遠藤周作を経て、孫弟子かな」
「いやああ、弟子なんて烏滸がましいなあ」

と照れながらも、エヴァンジェリスト氏は、続けて烏滸がましい言葉を放った。

「まあ、『プロのた…』、あ、うう、そうじゃなくって、ボクの書く文章でモーリアック的レトリックを使うことがあることは確かだけどな」
「おお、おお、そうであろう。正直なところ、どこがそのレトリックなのかは、商学部卒業ながら今は西洋美術史が専門のボクには分らんが、君の過去の作品も『田村書店』で売られる時も来るだろう」

ビエール・トンミー氏は、知ったばかりの神田の有名古書店『田村書店』を持ち出してきた。

「へっ!?ボクの過去の作品?」
「そうだ。雑誌というか雑誌みたいなものだった『何会』とか『東大』だ」






「いや、あれは、ノートをちぎってホッチキスで止めただけのものだったし、そもそも手書きだったから、原本一部しかなかったんだ」
「原本一部があれば、十分ではないか」
「その原本も今はもう、どこのあるのか分らない。ボクが実家を出た後、ボクの残した本なんかは勝手に処分されたようだったし、仮に残っていたとしても、実家を相続後、一緒に相続した次兄が、実家のものは総て廃棄処分としたんだ」
「つまり、原本がどこに行ったか不明ということだろう」
「まあ、そう云えばそうではあるが」
「君がノーベル賞を受賞したことが報道されると、『何会』とか『東大』を持っている者が、それで一儲けを考えても不思議ではない!」
「なるほどお…」
「だが、『何会』とか『東大』とかだけじゃないぞ」
「え!?」


(続く)



2020年8月30日日曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その100]






いや、正確に云うと、『田村書店』だ」

鎌倉文学館で開催されていた特別展「ビブリア古書堂の事件手帖」を周りながら、エヴァンジェリスト氏は、ビエール・トンミー氏が知らない書店名を挙げた。

「古書店というものに興味があった、と云うよりも、『田村書店』に通っていた頃のことを思い出したのだ」

エヴァンジェリスト氏は、眼を遣った特別展示室の天井の隅に、『田村書店』の看板を見ていた。

「なんだ、『田村書店』って?」
「田村正和がやっている本屋ではないぞ。田村亮でもない。ああ、田村亮といってもロンドンブーツではないぞ。田村正和の弟の俳優の方だ」
「どっちにしても、『田村書店』の経営者ではないんだろうに」
「勿論、阪妻』でもない」




「クダラン!」
「古書店だ。古本屋だ。学生時代、ボクがよく行っていた神田の古本屋だ。一階には、日本文学の初版本なんかが置いてあり、二階には、フランス文学やドイツ文学関係の本を取り扱っている結構、有名な古本屋だ。勿論、ボクは有名だから『田村書店』に行くようになったのではない。ボクが必要つとしているものがあったからだ」
「おお、君はやはり文学修士様であるなあ。その『田村書店』の二階にせっせと通っていたのだな」
「違う」
「は?」
「二階にも行くことはあったが、主に行ったのは、一階だ」
「君は初版本に興味があったのか?意外にミーハーなんだなあ」
「違う!モーリアックだ」
「だから、フランス文学関係の本がある二階なんだろ?」
「モーリアックの本は、ああ、原書のことだが、当時、古本でなくとも手に入った。翻訳本だ。大学に入ったところで、いきなりフランス語が読めるものではない。だが、モーリアックの翻訳書は、『テレーズ・デスケイルー』や『愛の砂漠』、『イエスの生涯』なんかは文庫本に入っていたが、当時、他の小説の翻訳はもう流通していなかった。だが、『田村書店』に行くと、絶版となっていた目黒書店の『モーリアック小説集』なんかが古本で手に入ることがあったんだ」
「ああ、モーリアックは、有名ではないものな。君から聞くまでは知らなかったからな」
「おお、嘆かわしい…」

エヴァンジェリスト氏は、両手で頭を抱えてみせた。如何にもな仕草である。


(続く)



2020年8月29日土曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その99]






「古本屋かあ」

エヴァンジェリスト氏が、鎌倉文学館の特別展を見ながら、呟いた。その時(2016年10月)、鎌倉文学館では、特別展「ビブリア古書堂の事件手帖」が開催されていた。エヴァンジェリスト氏とビエール・トンミー氏は、常設展示室から特別展示室に移っていた。

『ビブリア古書堂の事件手帖』って、読んだことがあるのか?」

ビエール・トンミー氏は、意外の感を持った。エヴァンジェリスト氏が、偏読で、石坂洋次郎や遠藤周作、フランソワ・モーリアック等、限られた作家の小説しか読まないことを知っていたからだ。

「ない。興味はない。ドラマだ。『ビブリア古書堂の事件手帖』は、テレビ・ドラマになったことがあるんだ。剛力彩芽が主演していた。AKIRAが相手役だった」
「『あきら』?小林旭か?」
かっぜーに逆らうー♪…いや、違う」




特別展示室でいきなり歌い出したエヴァンジェリスト氏に、他の来館者が、批判の眼差しを向けた。

「君も古いなあ。『あきら』というと、小林旭しか思い浮かばないのか?」
「じゃ、『にしきのあきら』か?」
「♫あーいしてるう♪」
「おい、止めろ!」

他の来館者の眼差しに気付いたビエール・トンミー氏が、肘で友人を突いた。

「君が『にしきのあきら』を持ち出したからだろうに。『にしきのあきら』が、剛力彩芽の相手役をすると思うか!?でも、前田日明でもないぞ。EXILEのAKIRAだ」
「EXILEには興味はないし、よく知らんが、君は、剛力彩芽が好きで、『ビブリア古書堂の事件手帖』のドラマを見たのか?」
「いや、たまたま見るようになっただけだ。でも、ドラマの設定となっている古書店というものには興味はあった」
「おお、君はやはり文学修士様であるなあ」


(続く)



2020年8月28日金曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その98]






「そんな、君から褒められるなんて…あ、いや、『プロの旅人』はボクのBlogではないんだけど」

エヴァンジェリスト氏は、鎌倉文学館の常設展示室を歩きながら、頭を掻いた。友人のビエール・トンミー氏が、Blog『プロの旅人』をクダラナイとしながらも、そこに秘められたものを解析し、評価してきたのだ。Blog『プロの旅人』は、多分、エヴァンジェリスト氏のBlogではなかったが。

「実のところ、ボクも、君があんなクダランBlogでノーベル文学賞を受賞するなんて納得がいかんが、選考委員たちが決めるなら仕方あるまい」

ビエール・トンミー氏は、本当に不満げな顔をしながらも続けた。

「君がノーベル文学賞を受賞すると、『プロの旅人』もここに展示されることになるだろう」
「でも、ボクは鎌倉に住んでいる訳ではないし、特に、鎌倉と縁がある訳でもないけど」
「君は今日、ここに来ているではないか。もう君は、鎌倉ゆかりの『文士』、いや、鎌倉ゆかりの『文士』嫌いの将来のノーベル文学賞受賞者なんだ」
「え?今日、ここに来ただけで、鎌倉ゆかりになってしまうのか!」
「ビジネスだよ。ここ鎌倉文学館だって、ノーベル文学賞受賞者の作品を展示したいだろう」
「なるほどねえ」
「『プロの旅人』は幾つかのエピソードが印刷されて展示されるだけはなく、タブレットが置かれ、ネットでアクセスすることもできるようなるだろう」
「やはり『怪人』ものなんかが展示されるのかなあ?」




「展示されるのは、『プロの旅人』だけではないぞ。『E氏の独り芝居』も展示されるし、それからなあ、ボクたちが交換している『iMessage』も展示さることになるだろう」
「ええーっ!『E氏の独り芝居』は非公開だし、それ以上に『iMessage』は、プライベートなものだぞ」
「ノーベル文学賞受賞者にプライベートはもうないのだ」
「いいのか?君の秘密も公になってしまうぞ。君はひた隠しにしているが、君がやはり広島皆実高校の出身だということも明らかになってしまうんだぞ」
「仕方あるまい。それも、ノーベル文学賞受賞者の友人を持った者の宿命であろう」


(続く)



2020年8月27日木曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その97]






「感想文の修士論文もいいではないか」

ビエール・トンミー氏が、鎌倉文学館で『文学』改革を語っていた。

「君の修士論文は、感想文だったかも知れないが、教授たちの心を動かしたのだろう?」

『ボブ・ディラン』がノーベル文学賞を受賞したことから、ノーベル文学賞選考委員たちが既存の『文学』の改革を狙っており、その一環として、エヴァンジェリスト氏にもノーベル文学賞を授賞しようとしている、と妄想しているのだ。

「ああ、ワッカーバ・ヤッシー・シンさんは、『君の情熱は認める』と云っていた」
「ははん?タイガー・ジェット・シンみたいだが、ワッカーバ・ヤッシー・シンって、教授か?」
「ああ、指導教授だった。修士論文の『François MAURIAC論』のテーマが、『見る』ということだったことから、笑いながら、『眼を瞑ってとおしてやる』と云われた。多分、文学研究科の修士論文の態をなしていなかったんだと思う」

エヴァンジェリスト氏は、無意識の内に、手で頬を触り、指先についた何か湿ったものを凝視した。それが、友人が飛ばした唾であることは認識できていなかった。

「でも、結局は、『君の情熱は認める』と、君の論文審査を合格にしたんだろ?」
「ああ、そうだ」
ワッカーバ・ヤッシー・シンも、それまでにない論文に戸惑ったのだ。だが、君の論文が秘めるものを認めない訳にはいかなったんだろう」
「そうだろうか…」
「『プロの旅人』だって、Blogなのか、ネットに公開された小説なのか、駄文なのか、それはよく分らんが、あれだって『文学』の態をなしているとはお世辞にも云えない。先ず、内容がクダラナさ過ぎる。文章に色を付けているところも、とても真っ当な『文学』とは見えない。そして、何よりあの気色悪いアイコラだ。『文学』にも、そう小説なんかにも挿絵はあるが、アイコラ挿絵なんて、ボクは他に知らん。ましてや、グロなアイコラなんてな」
「いやあ、そこまで云わなくても…」
「だがな、『プロの旅人』は、時にな、いいか、ほんの時にだぞ、人間の本質、世の本質に触れることを書くことがある。それまでのクダラナさは、そういった本質に触れることにありがちな、ある種の胡散臭さ、もしくは青臭さをカモフラージュするものとも見えるんだ。一種の偽悪趣味かもしれん。自らの真の姿を曝け出したくないのだ。衒うことを嫌う君は、恥じを知る男だからな」

と、解説しながら、ビエール・トンミー氏は、己の解析が間違っているとは思わないものの、自らの意思によるものではなく、何かに突き動かされているように感じた。





(続く)


2020年8月26日水曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その96]






「はああ!?」

ビエール・トンミー氏が、鬼の形相に、いや、鬼となった。鎌倉文学館の常設展示室で、友人のエヴァンジェリスト氏が、『プロの旅人』のことを面白い、と云ったことが、彼の怒りに火をつけたのだ。

「あんなお下劣、品性最低なBlogなんか、全く面白くないっ!アイコラだって、粗い作りだし、グロくて、面白くないを通り越して気持ち悪くて堪らん!」

ビエール・トンミー氏が飛ばした唾が、エヴァンジェリスト氏の頬についた。

「も、も、申し訳ない。あ、いや…ボクが書いた訳でも、描いた訳でもないんだが…」

鬼と化した友人を前に萎縮するエヴァンジェリスト氏は、友人の唾が頬についたことに気付かない。

「言い訳は男らしくないぞ」
「いや、そうではなくって…本当に…。でも、そんな面白くないBlogで、何故、ノーベル文学賞受賞となるんだろう?」
「面白くないのは、Blogだけではない。『E氏の独り芝居』という一般には非公開のメルマガも、全く面白くない!そこんとこは、ノーベル文学賞選考委員たちもよーく分っているんだ」
「え!?『E氏の独り芝居』も選考委員に見られているのか?」
「『E氏の独り芝居』は、初期はまだまともな文章もあったが、このところは完全にアイコラ集だ。それも、一般には非公開なのをいいことに、他人の顔を勝手に使ってやりたい放題のアイコラばかりだ。しかも、『プロの旅人』のアイコラ以上に面白くない」




「では、何故、そんな面白くもないBlogやメルマガで、ボクは、ノーベル文学賞受賞となるんだ?...あ、『プロの旅人』は、ボクの書くBlogではないが…」
「おお、そこだ。問題の本質は、そこだ。ノーベル文学賞選考委員たちは、考えているのだ。『ボブ・ディラン』以前の受賞者は、まあ、正直なところ、どんな受賞者がいたのかよく知らんが、皆、所謂、『文士』であっただろう。そう、君がなることを拒否した『文士』だ。しかし、『文学』が『文士』によるもののままであってはいかん、と選考委員たちは、考えているのだと思う。そこで、先ずは、『ボブ・ディラン』に授賞なんだろう。しかし、もっと既存の『文学』を破壊し、『文学』の改革を望んでいるのだと、ボクは思う」

ビエール・トンミー氏は、いつしか自分の話している戯言が、真っ当なものと思えて来始めていた。


(続く)




2020年8月25日火曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その95]






「え?世界に?」

エヴァンジェリスト氏は、ますます飛躍していくように思える友人ビエール・トンミー氏の発言に付いていけなくなってきた。友人は、エヴァンジェリスト氏の書いた修士論文や、エヴァンジェリスト氏のものではないが(ないはずだが)、Blog『プロの旅人』が、今二人がいる鎌倉文学館に展示されると云うだけではない。『世界』と云う言葉を持ち出してきたのだ。

「そうだ。君はなあ、ノーベル文学賞を受賞するんだ」

『ノーベル文学賞』という言葉に、展示室内にいた他の来館者の一人が振り向いた。

「おい、おい、君は今日、時々、心ここに在らずな時があるが、頭が異次元にでも飛んでるのではないか?」
「おお、得意のリサ・ランドールの『5次元空間』だな」
「『5次元空間』では、Blog作家がノーベル文学賞の受賞対象になることはあるのか?」
「いや、『5次元空間』でなくともあり得るのだ。君は、先週のニュースを知らんのか?」
「『PPAP』、つまり、『ペンパイナッポーアッポーペン』が、YouTubeの週間再生回数ランキングで世界1位になった、ってことか?」




「ああ、あれもあり得ないと思われることが起きる例かも知れんが、『PPAP』のことではない。『ボブ・ディラン』だ」
「ああ…」
「そうだ、判ったようだな。歌手の『ボブ・ディラン』が、まさかのノーベル文学賞受賞となったんだ。であれば、Blog作家なら尚更、そう、君だってノーベル文学賞受賞となって不思議ではあるまい」
「うーむ、『プロの旅人』は、ボクのBlogではないが、超お下劣Blogだぞ」
「ああ、すぐにエロな話になったり、ウンコの話に持って行ったり、『怪人』とか『桃怪人』とか『エロ仙人』なんぞという妙ちくりんなキャラクターを登場させたかと思うと、石原プロに入るんじゃないか、なんて妄想甚だしいことを云いだす始末だ」
「まあ、その通りだが…でも、『プロの旅人』は面白いとは思うけどなあ…」

エヴァンジェリスト氏は、体の前で、右手の人差し指の先と左手の人差し指の先をトントンとつけながら、口を尖らした。


(続く)



2020年8月24日月曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その94]






「え?Blog?」

友人のビエール・トンミー氏の思いがけない言葉に、エヴァンジェリスト氏は、思わず訊き返した。そこは、鎌倉文学館の常設展示室であった。ビエール・トンミー氏は、そこにエヴァンジェリスト氏の修士論文や、更には、彼のblogも展示されてしかるべきだ、と云ってきたのだ。

「ああ、『プロの旅人』だ」

ビエール・トンミー氏は、冷静にBlog名を告げた。

「いや、あれは、『プロの旅人』氏のBlogだ」
「ああ、ボクもそう思ってきたが、『プロの旅人』氏って誰だ?」
「うう…ああ…ボクたちの共通の友人だ。皆実高校の1年7ホームで一緒だったじゃないか」
「君がそう云うから、1年7ホームに『プロの旅人』氏もいたように思っていたが、よくよく考えると、そんな奴いたと云う記憶がない」
「『ミスター・メモリー』と云われる程の記憶力を持つ君らしくもない」
「高校の頃だけじゃないぞ。今だって、共通の友人というのに、全然、姿を見せないではないか」
「え?そうかあ?....」

エヴァンジェリスト氏は、何かを誤魔化すかのように、興味もない展示された誰か文豪の生原稿を覗き込んだ。

「君なんだろ?」
「へっ!?」
「『プロの旅人』氏とは、君のことなんだろ?」



「あんなクダラナイBlogは、ボクのものではない。お下劣なアイコラ満載だし」
「クダラナイのはその通りだが、そのお下劣Blogが、ここに展示されるのだ」
「嫌だ!あ!....『プロの旅人』は、ボクのBlogではないが、そもそもBlogが文学館に展示される訳がないだろう」
「いやいや、それがそうではないんだ。君は、世界に名を馳せるのだ」


(続く)


2020年8月23日日曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その93]






「いや、あんなものは、論文ではない!感想文だ」

鎌倉文学館の常設展示室で、エヴァンジェリスト氏が、吐き棄てるように云った。

「そうかなあ。まあ、論文か感想文かは知らないが、ボクは心を動かされたぞ。君が書いたものだと思うと、ちょっと悔しかったがな」

ビエール・トンミー氏は、エヴァンジェリスト氏が修士論文で取り上げたフランソワ・モーリアック(François Mauriac)を読んだことはなかったが、その作家がエヴァンジェリスト氏の心の中に生じさせたものを、その修士論文で感じたのは本当だった。普段のオチャラケた男の心底に在るものに触れたと思った。




しかし…

「ボクも『文学者』にならないといけないと思った時期はあった。だから、『四田文学学生会』にも入ったが、夏の合宿で自分は『文学者』にはなれない、と思った。いや、なりたいと思わなくなったんだ」

と、エヴァンジェリスト氏は、40年近く経ったにも拘らず、『文学者』を断念した当時のように顔を曇らせた。




「君が自分のことを『文学者』と思うと思うまいと、君の修士論文は、ここ『鎌倉文学館』に展示されてしかるべきだ」

ビエール・トンミー氏の思いがけない言葉に、エヴァンジェリスト氏は、友人を凝視した。

「Blogだって展示されるのだ、ここにな」

それは、もっと思いもしない言葉だった。


(続く)



2020年8月22日土曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その92]






「靴は脱ぐんだぞ」

鎌倉文学館の玄関で、ビエール・トンミー氏が、エヴァンジェリスト氏に注意した。そこは、土足厳禁であった。

「え?服を脱ぐの?いや~ん!」

と云うと、エヴァンジェリスト氏は、手で体の前を隠すようにして、腰をクネらせた。




「あは~ん?服を脱ぎたかったら脱げ」

ビエール・トンミー氏は、独りオチャラケる友人を無視し、靴を脱ぐと、下駄箱に入れ、赤いじゅうたんが敷かれた階段を上って行った。

「おお、なんだか文学の香りがするなあ」

ホールを通り、常設展示室に入ると、声を潜め、ビエール・トンミー氏が呟いた。

「おい、それはどんな香りなんだ?」

他にも幾人か来館者がおり、さすがのエヴァンジェリスト氏も小声で訊いた。

「君も文学者だろうに…」

あらためて呆れたといった様子で、ビエール・トンミー氏は、首を左右に振った。

「ああ、やはりボクには文学は遠い存在だ。ボクは、文学の道を棄てたんだ…」

展示された鎌倉ゆかりの文士たちの生原稿や手紙等を興味なさげに見ながら、ため息をつくようにエヴァンジェリスト氏が云う。

「いや、君の修士論文は、なかなかのものだったぞ」

ビエール・トンミー氏が、真顔で友人を褒める。読んだのは、厳密には修士論文ではなく、その草稿であったが(友人が修士論文を書いた当時は、まだコピー機は普及しておらず、論文自体は、大学の図書館に所蔵されているものしかないのだ)、普段はお下劣としか思えない友人の心の深層を見たように思ったのだ。


(続く)



2020年8月21日金曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その91]






「おっ!どうした!?近い、近い、近いぞ!」

と、エヴァンジェリスト氏が、身を引きながら、両手をクロスさせ、顔を防御した。鎌倉文学館の玄関横に掲げれられていた表札のようなに書かれた文字を判読できず、ビエール・トンミー氏に聞こうと、振り向いたところ、友人の顔が間近に迫っていたのだ。

「まさか、またボクにキスでもしようとしたんじゃあるまいな」




「バ、バ、馬鹿云うな!か、か、確認しようとしたんだ、その文字を」
「まあ、そりゃそうだな。皆実高校の美少年の双璧と呼ばれたボクたちだが、いくら相手が美しかろうと、ボクは勿論、君もソッチの傾向はなかったものな」
「ああ、これはなあ。『長楽山荘』だ」

表札のようなものに書かれた文字が、筆書体であった為、『長』という字が、毛』のように見えなくはなかったのだ。

「おお、さすが、博識大先生だなあ」
「やめろ、そのイヤラシイ云い方は」
「君は、イヤラシイじゃないか」
「ああ、ボクはイヤラシイ男だが、そのイヤラシイを云ってるんじゃあない」
「しかし、何故、『長楽山荘』なんだ?ここは、鎌倉文学館ではなかったのか?まさか、君は、ボクを騙して山荘に連れ込もうとしているのか?」
「ああ、ここにはなあ、昔、そう、鎌倉時代だ、『長楽寺』というお寺があったんだ。前田家の別邸は、元々は、『聴涛山荘(ちょうとうさんそう)』という名前だったんだが、関東大震災で倒壊して再建した時に、『長楽山荘』という名前にしたんだ」

『みさを』と鎌倉文学館に来るにあたり、事前に調べておいた知識をまだ覚えていた。

「いやあ、君の博識には、本当に惚れ惚れするなあ。君の解説を聞いていると、ついつい、『この人になら唇を奪われてもいい』と思ってしまいそうだ」
「ああ、もういい加減にしろ。いいから入るぞ」

と云うと、ビエール・トンミー氏は、鎌倉文学館の玄関に入って行った。


(続く)




2020年8月20日木曜日

治療の旅【江ノ島/鎌倉・編】[その90]






「おー、ここか」

というエヴァンジェリスト氏の言葉で、ビエール・トンミー氏は、自分が鎌倉文学館の玄関まで来ていたことに気付いた。『招鶴洞』に入る辺りから、あの時の『みさを』の言葉に心も視線も囚えられ、自分がどこを歩き、どこにいるのか……忘我の状態となっていたのだ。

「アタシの方こそ、ごめんなさい」

招鶴洞』で、彼女の唇を奪おうとしたのは、自分の方なのに、それを拒否した『みさを』が謝ってきたのだ。

「こんな車寄せがあると、如何にも昔の建物って感じだなあ」

と、エヴァンジェリスト氏は、車寄せの天井や周囲を見回していたが、玄関の方に眼を遣ると、

「おや、何だこれは?」

と首を捻りながら、玄関横に掲げられた表札のようなものに顔を近付けた。

「何と書いてあるんだ?」

と、エヴァンジェリスト氏が呟いた。それは独り言のようでもあり、ビエール・トンミー氏に質問しているようでもあった。しかし、ビエール・トンミー氏の方は、

「(ブルルっ!)」

と頭を振った。表札のようなものに顔を近付けた友人の後頭部が、あろうことか、『みさを』の後頭部のように見えてしまったのだ。あの時、『みさを』も、エヴァンジェリスト氏と同様に、表札のようなものに顔を近付け、

「何と書いてあるのかしら?」

と云ったのだ。そして、拒否されたばかりであったのも拘らず、背後から抱きしめたい欲望に駆られたのだ。

「(んぐっ!)」

ビエール・トンミー氏は、今、眼の前にある後頭部が、友人のものであるのか、『みさを』のものであるのか、判別できなくなっていた。

「んん?『毛楽山荘』?」

と問う言葉も、エヴァンジェリスト氏のものであるのか、『みさを』のものであるのか、判別できなくなっていた。

「(ええい、構うものか!)」

と後頭部に体を寄せて行った時、

「君なら知ってるだろう、これ、何て書いてあるのか?」

と、振り向いた後頭部は、エヴァンジェリスト氏であった。





(続く)